
フェリペ2世 異端審問強化を指示 17州の貴族 貴族同盟
1565年エグモント伯が宗教迫害の緩和を求めて、マドリッドのフェリペの宮廷に派遣された。しかし11月に届いた回答は迫害の強化と全国会議開催の拒否だった。65年12月、17州の貴族はカルヴァン派のブレードゥロード伯たちを指導者に、宗教迫害に抗議し低地地方の諸特権を守るために「貴族同盟」を結成した。この同盟には新教徒だけでなくカトリック貴族も受け入れられた。1566年4月、同盟貴族たちが執政マルグリートに宗教裁判の廃止と新たな司教区制度を求める請願をおこなった(乞食 へーゼン)。
マルグリートは請願書を王に送る約束をしたが、それは時間稼ぎだった。カルヴァン派の人々は約束をスペイン側の譲歩ととらえて、亡命者が帰国し組織作りを始めた。この年の夏は穀物が不作で、パンは不足し価格が上がった。生活が脅かされたこともあって、8〜9月にカルヴァン派の人々は、カトリック教会や修道院を攻撃し、聖画像破壊を始めた。それはフランドル地方からアントウェルペンを経て北部へと広まっていった。カトリック教徒にとっては大きな衝撃で、貴族たちも距離をとるようになった。貴族同盟は解散し、カルヴァン派は拠点ヴァランシエンヌに孤立した。1567年春、カルヴァン派の軍はアントウェルペン近郊で敗れ、ヴァランシエンヌも陥落した。多くのカルヴァン派の人々は亡命し、オランイェ公ウィレムもドイツに亡命した。
マルグリートは請願書を王に送る約束をしたが、それは時間稼ぎだった。カルヴァン派の人々は約束をスペイン側の譲歩ととらえて、亡命者が帰国し組織作りを始めた。この年の夏は穀物が不作で、パンは不足し価格が上がった。生活が脅かされたこともあって、8〜9月にカルヴァン派の人々は、カトリック教会や修道院を攻撃し、聖画像破壊を始めた。それはフランドル地方からアントウェルペンを経て北部へと広まっていった。カトリック教徒にとっては大きな衝撃で、貴族たちも距離をとるようになった。貴族同盟は解散し、カルヴァン派は拠点ヴァランシエンヌに孤立した。1567年春、カルヴァン派の軍はアントウェルペン近郊で敗れ、ヴァランシエンヌも陥落した。多くのカルヴァン派の人々は亡命し、オランイェ公ウィレムもドイツに亡命した。
1567年8月、フェリペ2世はアルバ公(在位1567〜73)を低地地方に派遣して、反逆の徹底的弾圧を図った。アルバ公の任務は異端を撲滅することと、州による分立主義を根絶することだった。8月ブリュッセルに到着したアルバ公は、9月にエグモント伯、ホールヌ伯らを逮捕、執政マルグリートは辞職してブリュッセルを去った。過去の反逆を罰するための裁判機関「騒擾評議会(血の評議会)」を新設して、3年間で8千人に死刑を宣告した。68年6月、エグモント伯、ホールヌ伯はブリュッセルの大広場で斬首された。
1569年3月、アルバ公は新たな課税を宣言した。資産にかかる百分の一税、不動産取引にかかる二十分の一税、すべての商品取引にかかる十分の一税。商工業に重い負担だったため、反感が強まり、徴収は延期された。この問題によって、アルバ公の圧政に対する抵抗の意識が北部低地地方の反乱蜂起へとつながっていく。
1572年イングランドに亡命していたカルヴァン派がホラントの港デン・ブリール上陸し、スペイン軍との戦いが始まった。カルヴァン派に改宗したオランイェ公が反乱を指揮していた。1573年7月、スペイン軍は一時的に進攻したが、その後撤退して敗北した。11月フェリペはアルバ公を解任した。
1560年代
世界各国史14 スイス・ベネルクス史
1569年3月、アルバ公は新たな課税を宣言した。資産にかかる百分の一税、不動産取引にかかる二十分の一税、すべての商品取引にかかる十分の一税。商工業に重い負担だったため、反感が強まり、徴収は延期された。この問題によって、アルバ公の圧政に対する抵抗の意識が北部低地地方の反乱蜂起へとつながっていく。
1572年イングランドに亡命していたカルヴァン派がホラントの港デン・ブリール上陸し、スペイン軍との戦いが始まった。カルヴァン派に改宗したオランイェ公が反乱を指揮していた。1573年7月、スペイン軍は一時的に進攻したが、その後撤退して敗北した。11月フェリペはアルバ公を解任した。
1560年代
世界各国史14 スイス・ベネルクス史