
執政マルハレータ グランヴェルを解任
カール5世は1555年10月に低地諸州の統治権を、56年1月にスペイン王位をフェリペに譲り、同年9月にスペインで隠遁生活に入った。フェリペ2世は1559年4月カトー・カンブレジ条約でフランスと和平を結ぶと、9月新国王としてスペインへ向かった。
フェリペは異母姉のパルマ女公マルハレータ(マルグリート)を執政(全州総督)に任じ、執政を補佐する寵臣のグランヴェル(アラス司教)を残して、財政問題の解決と異端審問の継続を指示していた。
地元の貴族たちは旧来からの特権の尊重、大貴族の政治的発言力の確保、財政悪化の原因となっているスペイン軍の国外退去などを求めた。1561年にスペイン軍の撤退は実現したが、国政の実権はグランヴェルら少数の寵臣が握り続けていた。
1560年代
世界各国史16 スペイン・ポルトガル史
フェリペは異母姉のパルマ女公マルハレータ(マルグリート)を執政(全州総督)に任じ、執政を補佐する寵臣のグランヴェル(アラス司教)を残して、財政問題の解決と異端審問の継続を指示していた。
地元の貴族たちは旧来からの特権の尊重、大貴族の政治的発言力の確保、財政悪化の原因となっているスペイン軍の国外退去などを求めた。1561年にスペイン軍の撤退は実現したが、国政の実権はグランヴェルら少数の寵臣が握り続けていた。
1560年代
世界各国史16 スペイン・ポルトガル史
1559年の和平でフランス国境が開放されたことで、カルヴァン派(改革派)の新教徒が南部諸州に入り、カルヴァン主義が南部から低地諸州に急速に広まった。同じ頃低地諸州では司教区再編問題が起きた。低地諸州はそれまで外国の大司教区(ランス、ケルン、トリアー)の管轄下にあったが、低地諸州に3つの大司教区(カンブレ、メヘレン、ユトレヒト)と15の司教区を置くことになった。
カール5世の頃、教会を国家に従属させ、教会への支配を強めるために計画されていたのが、1559年教皇パウロ4世によって認められ、62年から具体化された。これによって貴族は教会にたいする既得権を失うことになった。さらにグランヴェルがメヘレン大司教に就任し、異端審問で活躍した神学者たちが各地の司教に任命された。改革派が浸透してきた時期におこなわれた司教区再編にグランヴェルの政治的野心を感じた大貴族は、執政マルハレータに働きかけ、1564年3月グランヴェルの解任に成功した。
カール5世の頃、教会を国家に従属させ、教会への支配を強めるために計画されていたのが、1559年教皇パウロ4世によって認められ、62年から具体化された。これによって貴族は教会にたいする既得権を失うことになった。さらにグランヴェルがメヘレン大司教に就任し、異端審問で活躍した神学者たちが各地の司教に任命された。改革派が浸透してきた時期におこなわれた司教区再編にグランヴェルの政治的野心を感じた大貴族は、執政マルハレータに働きかけ、1564年3月グランヴェルの解任に成功した。