
デンマーク・スウェーデン 北方七年戦争始まる
1559年デンマーク国王クリスチャン3世が死去し、フレゼリク2世(在位1559〜88)が継ぎ、1560年にはスウェーデン国王グスタヴ1世(グスタヴ・ヴァーザ)が死去して、エーリック14世(在位1560〜68)が継いだ。
1550年代、ドイツ騎士団はイヴァン雷帝のロシアの圧力を受けて領土の維持が難しくなっていた。騎士団はスウェーデンとポーランドに保護を求め、レヴァル(タリン)市はスウェーデンへの併合を求めていたが、グスタヴは危険になることを警戒して応じないでいた。エーリックは即位後ただちにレヴァルを併合し、翌年にはエストニアを領土化している。ドイツ騎士団領のリヴォニアはポーランドに吸収され、両国の間でバルト海東岸の覇権をめぐる争いが続くことになった。さらにエーリックはロシアとの緊張が強まると、1562年にフィンランド湾南岸のナルヴァ港を封鎖して慢性的な交戦状態になった。またフィンランド湾の封鎖によってハンザ都市やデンマークとの争いが増えることになった。
1560年代
世界各国史21 北欧史
1550年代、ドイツ騎士団はイヴァン雷帝のロシアの圧力を受けて領土の維持が難しくなっていた。騎士団はスウェーデンとポーランドに保護を求め、レヴァル(タリン)市はスウェーデンへの併合を求めていたが、グスタヴは危険になることを警戒して応じないでいた。エーリックは即位後ただちにレヴァルを併合し、翌年にはエストニアを領土化している。ドイツ騎士団領のリヴォニアはポーランドに吸収され、両国の間でバルト海東岸の覇権をめぐる争いが続くことになった。さらにエーリックはロシアとの緊張が強まると、1562年にフィンランド湾南岸のナルヴァ港を封鎖して慢性的な交戦状態になった。またフィンランド湾の封鎖によってハンザ都市やデンマークとの争いが増えることになった。
1560年代
世界各国史21 北欧史
デンマークのフレゼリク2世は、ホルシュタインの一部を併合し、カルマル連合再建をめざしてスウェーデン王位を求めていたが、スウェーデンの動きに脅威を感じ強硬策をとることにした。
1563年デンマーク軍がスウェーデン領内に侵入し、戦争状態に入った。戦況は一進一退で、両国内では国土の荒廃と経済情勢の悪化による不満が高まっていった。エーリックは貴族と対立し、特別裁判所を設けて敵対的な貴族を弾圧・粛清し始めた。とくに弟ユーハン(1562年以降監禁状態)の支持者に対しては厳しく、1567年には集団処刑がおこなわれた。1568年、貴族たちは反乱を起こしてエーリックを廃位、1569年にユーハン(在位1569〜92)を王に擁立した。
デンマークのフレゼリクも孤立していた。1570年のシュテティーン条約で「北方七年戦争」は終わった。互いに痛み分けの講和で、人命と富を犠牲にし、相互の嫌悪感はのちの時代まで影響を残した。両国の国王の力が弱まり、貴族の政治権力が強まった。
スウェーデンとロシアの戦争は、1581年に講和が結ばれた。スウェーデンはナルヴァを獲得して、フィンランド湾沿岸の多くを支配下に置いた。1584年にイヴァン雷帝が死去して、ロシアからの脅威は少なくなった。
1563年デンマーク軍がスウェーデン領内に侵入し、戦争状態に入った。戦況は一進一退で、両国内では国土の荒廃と経済情勢の悪化による不満が高まっていった。エーリックは貴族と対立し、特別裁判所を設けて敵対的な貴族を弾圧・粛清し始めた。とくに弟ユーハン(1562年以降監禁状態)の支持者に対しては厳しく、1567年には集団処刑がおこなわれた。1568年、貴族たちは反乱を起こしてエーリックを廃位、1569年にユーハン(在位1569〜92)を王に擁立した。
デンマークのフレゼリクも孤立していた。1570年のシュテティーン条約で「北方七年戦争」は終わった。互いに痛み分けの講和で、人命と富を犠牲にし、相互の嫌悪感はのちの時代まで影響を残した。両国の国王の力が弱まり、貴族の政治権力が強まった。
スウェーデンとロシアの戦争は、1581年に講和が結ばれた。スウェーデンはナルヴァを獲得して、フィンランド湾沿岸の多くを支配下に置いた。1584年にイヴァン雷帝が死去して、ロシアからの脅威は少なくなった。