
フェリーペ2世 宮廷をマドリードに定める
フェリーペ2世は父カルロスと違い、ほとんどスペインから離れたことはなく、カスティーリャ語しか話さなかった。1561年に宮廷をマドリードに定め、1563年からエル・エスコリアルに修道院兼王宮を建設する(84年に完成)と、フェリーペの行動範囲は離宮のあったセゴビア、アランフェスとマドリード、エル・エスコリアルに限られ、執務室で帝国の統治実務に専念した「書類王」「慎重王」とも呼ばれた。
フェリーペが重視したのがカトリックによる国家統合だった。プロテスタント的な動きは告発され、1559年、60年、62年と火刑がおこなわれた。59年にはスペイン異端審問制によって「禁書目録」が公布され、そこにはエラスムスの著作や異端の嫌疑をかけられていたトレド大司教カランサの説教も含まれていた。一時的措置だったが、指定された以外の外国の大学でスペイン人が学ぶことも禁じられた。このような統制は学問を萎縮させ、人文学の研究で異端として告発されることを恐れる学者も現れた。
異端審問制はコンベルソや異端的教義信奉者を監視するだけでなく、もともとのキリスト教徒(旧キリスト教徒)にたいする精神的・道徳的統制にも活動範囲を広げていった。
1560年代
世界各国史16 スペイン・ポルトガル史
フェリーペが重視したのがカトリックによる国家統合だった。プロテスタント的な動きは告発され、1559年、60年、62年と火刑がおこなわれた。59年にはスペイン異端審問制によって「禁書目録」が公布され、そこにはエラスムスの著作や異端の嫌疑をかけられていたトレド大司教カランサの説教も含まれていた。一時的措置だったが、指定された以外の外国の大学でスペイン人が学ぶことも禁じられた。このような統制は学問を萎縮させ、人文学の研究で異端として告発されることを恐れる学者も現れた。
異端審問制はコンベルソや異端的教義信奉者を監視するだけでなく、もともとのキリスト教徒(旧キリスト教徒)にたいする精神的・道徳的統制にも活動範囲を広げていった。
1560年代
世界各国史16 スペイン・ポルトガル史
民衆の冒瀆・瀆神の言動、姦通や重婚、魔術行為、聖職者の求愛行為なども取り締まりの対象だった。隠れユダヤ教徒弾圧の時期を過ぎて、火刑犠牲者は減少していたが、都市の中央広場でおこなわれる異端判決宣告式や処刑場での火刑は、人々に正統派信仰逸脱の結果を知らせる教訓劇にもなっていた。各市町村に異端告発に協力する世俗取締官をもった異端審問制は強圧的な社会統制装置として機能していた。
王権はモリスコ(キリスト教に改宗したイスラム教徒)にも、実質的なキリスト教化のために、アラビア語や特有の風俗・習慣を禁止した。異端審問制はグラナダ、バレンシア、サラゴサでモリスコへの監視を強めた。これに反発したグラナダのモリスコは、1568年に大規模な反乱を起こし2年間にわたって抵抗した。
王権は、法的に認可はしていないが「血の純潔」規約の広がりを容認していた。15世紀末から信徒会、大学、各種団体などの入会要件に祖先に「ユダヤ教徒やモーロ人の血が混じらない」という規定が含まれるようになり、1540〜50年代には一般化した。1547年、トレド大司教が参事会への入会に「血の純潔」規約を含めると、キリスト教徒差別の是非に論議が起こったが、56年にフェリーペ2世が正式に認めている。その後も「血の純潔」にたいする批判は続いたが、伝統社会の「名誉」意識と重なって、19世紀前半、アンシャン・レジーム解体まで存続した。
王権はモリスコ(キリスト教に改宗したイスラム教徒)にも、実質的なキリスト教化のために、アラビア語や特有の風俗・習慣を禁止した。異端審問制はグラナダ、バレンシア、サラゴサでモリスコへの監視を強めた。これに反発したグラナダのモリスコは、1568年に大規模な反乱を起こし2年間にわたって抵抗した。
王権は、法的に認可はしていないが「血の純潔」規約の広がりを容認していた。15世紀末から信徒会、大学、各種団体などの入会要件に祖先に「ユダヤ教徒やモーロ人の血が混じらない」という規定が含まれるようになり、1540〜50年代には一般化した。1547年、トレド大司教が参事会への入会に「血の純潔」規約を含めると、キリスト教徒差別の是非に論議が起こったが、56年にフェリーペ2世が正式に認めている。その後も「血の純潔」にたいする批判は続いたが、伝統社会の「名誉」意識と重なって、19世紀前半、アンシャン・レジーム解体まで存続した。