
カザン・ハン国併合とリヴォニア戦争
モスクワはイヴァン3世の頃からカザンと戦っていて、傀儡政権をたてたこともある。その後クリミアの勢力がカザンにおよび、カザンとモスクワの関係が厳しくなった。モスクワは東側にあるカザンからの脅威を受けていたが、カザンはヴォルガ川中流域にあって、国際貿易の要地だった。
1552年10月、イヴァン4世は三度目の攻撃でカザンを陥落させることができた。その4年後にはヴォルガ川下流域のアストラ・ハン国を征服し、ヴォルガ川を完全に支配した。カザンの東、バシキーリヤも併合し、カスピ海北域とウラル川流域のノガイ・ハン国もモスクワの権威を認め、ウラル山脈、シベリア方面への視界も開けてきた。ロシアの拡大に脅威を感じたクリミアは、オスマン帝国を後ろ盾に干渉しようとしていた。ロシアはクリミアとの対決は避け、防衛線を構築するなど消極策にとどまった。
ロシアはイスラム教徒のタタール人など、さまざまな民族を支配する多民族国家となった。
西への海の出口、バルト海側ではリヴォニアがロシアの進出目的になった。リヴォニアは騎士団が主に支配していたが、リガ大司教や諸司教、ルター派のドイツ人が多い諸都市と権力を分有していた。
1558年1月、ロシア軍がリヴォニアに侵入し、夏には東半分を占領した。クリミアからの脅威のために、59年に半年間の休戦条約が結ばれた。その間にポーランド、スウェーデン、デンマークが介入してきた。59年から62年にかけて、騎士団を保護下においたポーランド・リトアニアが正面から対抗した。
戦争は国際化し、消耗戦の結果、ロシアは得るものがないまま、1582年にポーランド、83年にはスウェーデンと講和が結ばれた。
1550年代
世界各国史22 ロシア史
1552年10月、イヴァン4世は三度目の攻撃でカザンを陥落させることができた。その4年後にはヴォルガ川下流域のアストラ・ハン国を征服し、ヴォルガ川を完全に支配した。カザンの東、バシキーリヤも併合し、カスピ海北域とウラル川流域のノガイ・ハン国もモスクワの権威を認め、ウラル山脈、シベリア方面への視界も開けてきた。ロシアの拡大に脅威を感じたクリミアは、オスマン帝国を後ろ盾に干渉しようとしていた。ロシアはクリミアとの対決は避け、防衛線を構築するなど消極策にとどまった。
ロシアはイスラム教徒のタタール人など、さまざまな民族を支配する多民族国家となった。
西への海の出口、バルト海側ではリヴォニアがロシアの進出目的になった。リヴォニアは騎士団が主に支配していたが、リガ大司教や諸司教、ルター派のドイツ人が多い諸都市と権力を分有していた。
1558年1月、ロシア軍がリヴォニアに侵入し、夏には東半分を占領した。クリミアからの脅威のために、59年に半年間の休戦条約が結ばれた。その間にポーランド、スウェーデン、デンマークが介入してきた。59年から62年にかけて、騎士団を保護下においたポーランド・リトアニアが正面から対抗した。
戦争は国際化し、消耗戦の結果、ロシアは得るものがないまま、1582年にポーランド、83年にはスウェーデンと講和が結ばれた。
1550年代
世界各国史22 ロシア史
