
エリザベス 即位
エリザベス(在位1558〜1603)が即位した頃、主教をはじめとする高位聖職者はメアリのカトリック復活を支持し、エドワードの急進的なプロテスタント化に戸惑い、嫌悪する人も多かった。聖書の言葉を重視するプロテスタントは、文字になじみの少ない庶民には遠いものだった。一方で亡命していたプロテスタントの指導者たちは帰国し始めていた。
エリザベス自身は、やや保守的なプロテスタントの信仰をいだいていたが、メアリのカトリック信仰ほど「理想主義的」でなく、現実を判断する冷静さをもっていた。即位の翌年、1559年に成立した「国王至上法」と「礼拝統一法」がエリザベスの宗教政策の基本となり、結果として今日の国教会へつながっている。エリザベスの国王至上法では、国王は教会の「首長」ではなく「統治者」とされ、世俗権力の意味合いが強められている。礼拝統一法に基づく共通祈祷書も、司祭に祭服着用を義務づけるなどエドワード6世よりもカトリック色を強めている。
1550年代
世界各国史11 イギリス史
エリザベス自身は、やや保守的なプロテスタントの信仰をいだいていたが、メアリのカトリック信仰ほど「理想主義的」でなく、現実を判断する冷静さをもっていた。即位の翌年、1559年に成立した「国王至上法」と「礼拝統一法」がエリザベスの宗教政策の基本となり、結果として今日の国教会へつながっている。エリザベスの国王至上法では、国王は教会の「首長」ではなく「統治者」とされ、世俗権力の意味合いが強められている。礼拝統一法に基づく共通祈祷書も、司祭に祭服着用を義務づけるなどエドワード6世よりもカトリック色を強めている。
1550年代
世界各国史11 イギリス史
1563年には聖職議会で「三十九カ条」の信仰箇条が制定され、国教会の神学的立場が示された。しかし、厳密な定義は避けられ、カトリック教徒には受け入れられない、正餐の規定箇条は当初伏せられていた。神学的に純粋な教会をつくるというより、できるだけ多くの人が国教会にとどまるように図られていた。
国教会に不満を持つ人たちも多く残っていた。ヘンリ8世の時代からの宗教改革に反発していた人たちは、メアリのカトリック信仰活性化の時代もあって、貴族・ジェントリなど上流階級に多かった。カトリック信仰に共感を持ち続けた人も、その多くは国王への忠誠を守っていた。エリザベスの体制が浸透し安定するまで、慎重に分裂が避けられていた。
プロテスタント側から曖昧さを批判する人々も現れた。ピューリタンとは国教会のさらなる改革を求める人たちを揶揄したもので、組織の維持を重視した人々と、教義の純粋化を求めた人々、国教会内部での方向性の違いから生まれていた。さらに「分離派」と呼ばれ、国教会批判を強めたグループにはカトリック教徒と同様に弾圧、処刑という手段もとられた。
国教会に不満を持つ人たちも多く残っていた。ヘンリ8世の時代からの宗教改革に反発していた人たちは、メアリのカトリック信仰活性化の時代もあって、貴族・ジェントリなど上流階級に多かった。カトリック信仰に共感を持ち続けた人も、その多くは国王への忠誠を守っていた。エリザベスの体制が浸透し安定するまで、慎重に分裂が避けられていた。
プロテスタント側から曖昧さを批判する人々も現れた。ピューリタンとは国教会のさらなる改革を求める人たちを揶揄したもので、組織の維持を重視した人々と、教義の純粋化を求めた人々、国教会内部での方向性の違いから生まれていた。さらに「分離派」と呼ばれ、国教会批判を強めたグループにはカトリック教徒と同様に弾圧、処刑という手段もとられた。