
フェリーペ2世 第1回破産宣告
フェリーペ2世(在位1556〜98)はカルロスから広大な領土と莫大な借金を受け継いだ。財源不足の王室は、年金支払いによる長期公債(フロ 額面の7%を上限に、毎年の通常収入から年金のかたちで支払われた)を売りにだしていた。この年金支払いが、1522年には通常収入の3分の1、1566年には3分の2に達していた。さらに不足する財源は、ドイツやイタリアの国際金融業者からの短期借款に頼っていた。その利子は1520年代は17.6%だったのが、50年代になると48.8%になっていた。
フェリーペは、1557年に最初の破産宣告(バンカロータ 国庫支払い停止宣言)をおこない、ほとんどの債務をその額の5%の年金支払いとする長期公債にきりかえた。しかし、その後の対外政策は国家の借財を増やし、支払い停止措置は60年、75年、96年と繰り返された。公債の総額は57年の3600万ドゥカードから98年の8500万ドゥカードに増えている。
フェリーペは従来からの租税の徴収を強めるほか、さまざまな手段で収入を増やそうとした。コルテスに臨時の上納金を求め、教会からの援助金の増額を要求、1590年にはミリョネス税(4種類の食料品に課せられた消費税)が導入された。さらに、貴族位、官職、王領地、村落領主権の売却などがおこなわれた。人々の負担で、フェリーペの治世期に税収は約3倍にふえた。
フェリーペは、1557年に最初の破産宣告(バンカロータ 国庫支払い停止宣言)をおこない、ほとんどの債務をその額の5%の年金支払いとする長期公債にきりかえた。しかし、その後の対外政策は国家の借財を増やし、支払い停止措置は60年、75年、96年と繰り返された。公債の総額は57年の3600万ドゥカードから98年の8500万ドゥカードに増えている。
フェリーペは従来からの租税の徴収を強めるほか、さまざまな手段で収入を増やそうとした。コルテスに臨時の上納金を求め、教会からの援助金の増額を要求、1590年にはミリョネス税(4種類の食料品に課せられた消費税)が導入された。さらに、貴族位、官職、王領地、村落領主権の売却などがおこなわれた。人々の負担で、フェリーペの治世期に税収は約3倍にふえた。
しかし、カスティーリャ経済に陰りがみえてきた。15世紀半ばから羊毛取引と金融取引の中心だったメディーナ・デル・カンポの国際的定期市が、75年の破産宣告で痛手を受け、さらに羊毛輸出が減少して、96年の破産措置で崩壊していった。人口増加によって肥沃ではない土地にも広げられた農業の生産性が低下し、80年代からの不順な天候や96年から1602年にかけての疫病の流行による影響もあった。
セビーリャを独占港としたインディアス交易は、新大陸の銀の生産が増えたことから拡大した。船舶の総トン数は50年代から90年代にかけて3倍以上になっている。しかし新大陸では自給化が進んでスペインからの農産物需要は減り、手工業製品の需要に応えるためにはヨーロッパ諸国の製品を再輸出することになった。セビーリャはインディアス向け外国製品の中継港となっていた。
インディアスからの貴金属は、物価上昇(価格革命)をまねき、賃金はそれほど増えなかったため、人々の生活は苦しくなった。王室に入るアメリカ銀は、盛時で国家収入の20%ほどだったが、王権の戦費調達を支える国際金融業者からの資金借入の信用(クレディト)として機能した。
1550年代
世界各国史16 スペイン・ポルトガル史
セビーリャを独占港としたインディアス交易は、新大陸の銀の生産が増えたことから拡大した。船舶の総トン数は50年代から90年代にかけて3倍以上になっている。しかし新大陸では自給化が進んでスペインからの農産物需要は減り、手工業製品の需要に応えるためにはヨーロッパ諸国の製品を再輸出することになった。セビーリャはインディアス向け外国製品の中継港となっていた。
インディアスからの貴金属は、物価上昇(価格革命)をまねき、賃金はそれほど増えなかったため、人々の生活は苦しくなった。王室に入るアメリカ銀は、盛時で国家収入の20%ほどだったが、王権の戦費調達を支える国際金融業者からの資金借入の信用(クレディト)として機能した。
1550年代
世界各国史16 スペイン・ポルトガル史