
皇帝カール5世 退位
カルロス1世は大法官ガッティナラの「普遍王政の道」を進むようにという助言に従って、キリスト教普遍帝国の再興をめざした。そして、その理念に敵対する勢力には戦いを挑んだ。それはイスラム勢力のオスマン帝国、帝権を認めないフランス王権、帝国内のプロテスタント勢力だった。
1529年にウィーン攻囲をおこなったオスマン帝国は、ハンガリー方面では退却したが、北アフリカのベルベル人海賊と組んで、地中海に進出してきた。カルロスは1535年にチュニス遠征をおこなって勝利したが、41年のアルジェ攻略には失敗、46年にトルコと休戦しなければならなかった。
カルロスと皇帝位を争ったフランスのフランソワ1世は、その後もカルロスにことごとく対抗した。1525年パヴィアの戦いでカルロスはフランソワを捕虜にした。翌年、釈放されたフランソワが教皇クレメンス7世とコニャック同盟を結ぶと、皇帝軍は1527年「ローマ劫略」をおこなった。29年フランソワは、カンブレー和約でカルロスのイタリア支配を認めたが、対抗は止めずオスマン帝国との同盟も結んだ。44年にはクレピー和約が結ばれたが、51年フランスの新王アンリ2世は戦闘を再開した。
1550年代
世界各国史16 スペイン・ポルトガル史
1529年にウィーン攻囲をおこなったオスマン帝国は、ハンガリー方面では退却したが、北アフリカのベルベル人海賊と組んで、地中海に進出してきた。カルロスは1535年にチュニス遠征をおこなって勝利したが、41年のアルジェ攻略には失敗、46年にトルコと休戦しなければならなかった。
カルロスと皇帝位を争ったフランスのフランソワ1世は、その後もカルロスにことごとく対抗した。1525年パヴィアの戦いでカルロスはフランソワを捕虜にした。翌年、釈放されたフランソワが教皇クレメンス7世とコニャック同盟を結ぶと、皇帝軍は1527年「ローマ劫略」をおこなった。29年フランソワは、カンブレー和約でカルロスのイタリア支配を認めたが、対抗は止めずオスマン帝国との同盟も結んだ。44年にはクレピー和約が結ばれたが、51年フランスの新王アンリ2世は戦闘を再開した。
1550年代
世界各国史16 スペイン・ポルトガル史
自らをカトリック教会の守護者であると自負していたカルロスは、教会を分裂させるルターの改革運動に妥協はできなかった。しかし政治状況の悪化から、1555年のアウクスブルク宗教和議で、「領土の属する者に宗教も属す」の原則を認め、プロテスタント諸侯領でのルター派信仰を認めるしかなくなった。ヨーロッパを一つのキリスト教・カトリック普遍帝国とするカルロスの目標は達成できず、1556年失意のなかで退位した。皇帝位は弟フェルナンド(フェルディナント1世)に、神聖ローマ帝国を除くすべての領土は息子フェリーペ(フェリーペ2世)に譲った。隠遁場所にはエストレマドゥーラのユステ修道院を選んだ。
当初はカルロスの周りにもエラスムスの信奉者がいて、エラスムスの著作は多くスペイン語に訳されていた。ドイツでのプロテスタント諸侯の動きや、スペイン国内でも照明派といった異端の動きがみられると、状況は悪化した。形式主義的な信仰を批判し個人の内面を重視する点で、エラスムス派とルター派は重なっていて、トリエント公会議で教会と信仰とを不可分とする立場が強まると、異端審問制はエラスムス主義者に嫌疑をかけ始めた。1558年にスペインでルター派の存在が発覚すると、カルロスは異端の芽をつみとるように激しく勧告し、同年5月に15人が火刑に処された。9月にカルロスは死去したが、スペインと低地地方(ネーデルラント)では、信仰の統一を揺るがす動きに対して厳しい弾圧が続いていく。
当初はカルロスの周りにもエラスムスの信奉者がいて、エラスムスの著作は多くスペイン語に訳されていた。ドイツでのプロテスタント諸侯の動きや、スペイン国内でも照明派といった異端の動きがみられると、状況は悪化した。形式主義的な信仰を批判し個人の内面を重視する点で、エラスムス派とルター派は重なっていて、トリエント公会議で教会と信仰とを不可分とする立場が強まると、異端審問制はエラスムス主義者に嫌疑をかけ始めた。1558年にスペインでルター派の存在が発覚すると、カルロスは異端の芽をつみとるように激しく勧告し、同年5月に15人が火刑に処された。9月にカルロスは死去したが、スペインと低地地方(ネーデルラント)では、信仰の統一を揺るがす動きに対して厳しい弾圧が続いていく。