
ボヘミア 王位世襲継承権をハプスブルク家に与える
1520年代以降、オスマン帝国の脅威が宗教改革運動を勢いづかせ、一方では支配地域内での宗教紛争がハプスブルク家の対オスマン対策を不十分なものにしていた。
そのためフェルディナントはオーストリア、ボヘミア、ハンガリー三国を統合した中央集権体制の確立をめざしていた。三国の統治を協議する帝室顧問会議、執行機関の帝室書記局、三国の国庫を監督する帝室財務院を創設したが、三国の貴族を画一的に宮廷の指導下におくことはできなかった。
16世紀前半、フェルディナントがボヘミア諸邦にたいしておこなった政策は、王権の強化という点で成果をあげた。ボヘミア諸邦の地方議会開催に国王の招集が必要としたり、地方議会の国会議員の選出権を制限したりしている。また1546〜47年に神聖ローマ帝国内でシュマルカルデン戦争が起きたとき、プラハなどの諸都市と一部の貴族がプロテスタント側に立って行動した。フェルディナントは都市の自治特権を奪い、カトリック判事の派遣を決定したが、反抗した貴族を罰することはなかった。
16世紀前半、フェルディナントがボヘミア諸邦にたいしておこなった政策は、王権の強化という点で成果をあげた。ボヘミア諸邦の地方議会開催に国王の招集が必要としたり、地方議会の国会議員の選出権を制限したりしている。また1546〜47年に神聖ローマ帝国内でシュマルカルデン戦争が起きたとき、プラハなどの諸都市と一部の貴族がプロテスタント側に立って行動した。フェルディナントは都市の自治特権を奪い、カトリック判事の派遣を決定したが、反抗した貴族を罰することはなかった。
その結果、1554年ボヘミア国会で、ボヘミア王位の世襲継承権をハプスブルク家に与えることが決議された。フェルディナントはボヘミアの再カトリック化にも動いている。フス派急進派のターボル派の流れをくむボヘミア兄弟団を弾圧、一方1556年にイエズス会をボヘミアに招き、1561年には長く空位だったプラハ大司教座を復活させている。またフス派穏健派のウトラキストをカトリック教会へ復帰させる方法を探してもいた。
帝位を継いだマクシミリアン2世(在位1564〜76)は、1575年にウトラキスト、ボヘミア兄弟団、ルター派三派の信仰の自由を認める「ボヘミア人の信仰告白」を受け入れねばならなくなった。さらに、この内容は1609年のルドルフ2世(在位1576〜1612)の勅許状でも再度承認されている。
1550年代
世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史
帝位を継いだマクシミリアン2世(在位1564〜76)は、1575年にウトラキスト、ボヘミア兄弟団、ルター派三派の信仰の自由を認める「ボヘミア人の信仰告白」を受け入れねばならなくなった。さらに、この内容は1609年のルドルフ2世(在位1576〜1612)の勅許状でも再度承認されている。
1550年代
世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史