
メアリ1世 カトリック復活
1553年7月、メアリが王位に就いた(在位1553〜58)。イングランド初の女王だったが、ヘンリ8世が心配した動揺はなかった。新女王がカトリック教徒であることは周知されていて、ロンドンの一部で、違法だったがミサが復活したり、亡命が可能なプロテスタントは大陸へ渡っていった。女王側も不安要因が少なくなるため、プロテスタントの亡命を望んでいた。
議会法の積み重ねで宗教改革が進められていたため、カトリックへの復帰は女王の意向だけではできなかった。即位直後の議会で「礼拝統一法」などエドワード時代に成立した一連の宗教改革関連の法律が廃止された。それでもヘンリ8世末期に戻っただけで、メアリは国教会の首長だった。
イングランドがローマ教会に復帰するのは、1554年に議会で「国王至上法」などヘンリ8世時代の宗教改革法を廃止し、教皇使節レジナルド・プールによる「許し」を得たときだった。プールはエドワード3世の子孫で、ヨーク家の一員として王位継承権を主張できたが、ヘンリ8世の離婚問題で王と対立して亡命していた。学識で知られ、カトリック改革の指導者のひとりで、教皇候補にもあげられた人物だった。この後、カンタベリ大司教としてメアリ時代のカトリック復活・改革を支えていく。
議会法の積み重ねで宗教改革が進められていたため、カトリックへの復帰は女王の意向だけではできなかった。即位直後の議会で「礼拝統一法」などエドワード時代に成立した一連の宗教改革関連の法律が廃止された。それでもヘンリ8世末期に戻っただけで、メアリは国教会の首長だった。
イングランドがローマ教会に復帰するのは、1554年に議会で「国王至上法」などヘンリ8世時代の宗教改革法を廃止し、教皇使節レジナルド・プールによる「許し」を得たときだった。プールはエドワード3世の子孫で、ヨーク家の一員として王位継承権を主張できたが、ヘンリ8世の離婚問題で王と対立して亡命していた。学識で知られ、カトリック改革の指導者のひとりで、教皇候補にもあげられた人物だった。この後、カンタベリ大司教としてメアリ時代のカトリック復活・改革を支えていく。
メアリが諦めなければならなかったのが、旧教会財産の回復だった。修道院解散などで利益を得ていた貴族やジェントリから土地財産を取り戻すことはできず、逆に財政補填のために旧修道院領の売却を続けなくてはならなかった。また教皇教書はイングランドの法律に反しない範囲でのみ有効とされ、その絶対性は否定された。
多くの貴族・ジェントリがカトリック復活を容認したが、あくまでプロテスタント信仰を支持した人たちは「異端法」で取り締まられた。棄教を拒む者は異端者として火刑に処され、300人近くになったとされる。高位聖職者も含まれているが、ジェントルマン階級で亡命できなかった人は少なく、素朴な信仰の、社会の下層の人々が多かったらしい。このような処刑は当時として特異なものではなかったが、エリザベス時代のプロテスタントの教会史家ジョン・フォックスが「殉教者の書」で英雄化して描いたため、メアリのカトリック「反動」のイメージを後世に決定づけた。
1550年代
世界各国史11 イギリス史
多くの貴族・ジェントリがカトリック復活を容認したが、あくまでプロテスタント信仰を支持した人たちは「異端法」で取り締まられた。棄教を拒む者は異端者として火刑に処され、300人近くになったとされる。高位聖職者も含まれているが、ジェントルマン階級で亡命できなかった人は少なく、素朴な信仰の、社会の下層の人々が多かったらしい。このような処刑は当時として特異なものではなかったが、エリザベス時代のプロテスタントの教会史家ジョン・フォックスが「殉教者の書」で英雄化して描いたため、メアリのカトリック「反動」のイメージを後世に決定づけた。
1550年代
世界各国史11 イギリス史