
ジグムント2世アウグストの統治とシュラフタ民主政
1548年にジグムント2世アウグスト(統治1548〜72)の統治が始まると、「法の執行」の要求は、中流シュラフタによる反王権・反マグナートの政治運動に変わっていった。「執行」派は代議院を中心に活動し、指導者にはプロテスタントも多かった。主張は3点
1. 軍事・財政改革
1504年の法令以降不法に授貸与された王領地の返還の要求「領地の執行」
2. カトリック教会の諸特権
国防負担免除と教会裁判権にたいする批判
3. 国内の法的・制度的統合の強化
王は「執行」派の要求とは逆に、元老院の有力貴族の一部に王領地を分与して権力基盤を確保しようとした。代議院の反発は王権と元老院の同盟で抑えこんだ。
成果は1552年に国王代官による司教裁判所の判決執行を停止させたこと。実質的には教会裁判権の停止を意味し、10年後の議会でも再確認されて宗教的寛容の方向に進むことになった。
1540年代
世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史
1. 軍事・財政改革
1504年の法令以降不法に授貸与された王領地の返還の要求「領地の執行」
2. カトリック教会の諸特権
国防負担免除と教会裁判権にたいする批判
3. 国内の法的・制度的統合の強化
王は「執行」派の要求とは逆に、元老院の有力貴族の一部に王領地を分与して権力基盤を確保しようとした。代議院の反発は王権と元老院の同盟で抑えこんだ。
成果は1552年に国王代官による司教裁判所の判決執行を停止させたこと。実質的には教会裁判権の停止を意味し、10年後の議会でも再確認されて宗教的寛容の方向に進むことになった。
1540年代
世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史
1558年にはリヴォニアをめぐるモスクワ大公国との戦争が始まった。財政は逼迫し、3年間議会を開かずに統治したが事態は好転しなかった。1562年末に開かれた議会で、王は「執行」派との協力に転じた。シュラフタの身なりで議場に現れた王は「領地の執行」に同意した。次の議会で個々の王領地授貸与の合法性の審査が行われた。王領地利用者の取得分(2割)を差し引いた残りの4分の1が辺境防衛費に、4分の3が王室経費にあてられた。王領地の一部が返還され、辺境防衛のための常備軍(四分の一軍)が設置された。
1560年代に「執行」派と王権が協力し、元老院のマグナートを牽制しながら、政治的改革を進めたことは「シュラフタ民主政」の成長を示していた。
リヴォニアをめぐるモスクワ大公国との争いは、1561年のリヴォニア騎士団の世俗化と「共和国」への服属で状況が変わった。1563年からはスウェーデン、デンマークも加わったバルト海の支配権を巡る争いになった。ジグムント2世は私掠船団を組織し、1568年には「海事委員会」を設置した。1570年モスクワとの休戦が成立したが、ポウォツクを失うなど、リヴォニアについての問題は解決しなかった。
1560年代に「執行」派と王権が協力し、元老院のマグナートを牽制しながら、政治的改革を進めたことは「シュラフタ民主政」の成長を示していた。
リヴォニアをめぐるモスクワ大公国との争いは、1561年のリヴォニア騎士団の世俗化と「共和国」への服属で状況が変わった。1563年からはスウェーデン、デンマークも加わったバルト海の支配権を巡る争いになった。ジグムント2世は私掠船団を組織し、1568年には「海事委員会」を設置した。1570年モスクワとの休戦が成立したが、ポウォツクを失うなど、リヴォニアについての問題は解決しなかった。