
エドワード6世 宗教改革とサマセット公
1546年ヘンリ8世が病で伏すと、新教派のハートフォード伯と保守派のノーフォーク公の対立が激化した。政争に敗れたノーフォーク公は死刑を宣告されたが、処刑当日1547年1月にヘンリ8世が死去して処刑を免れた。
新国王エドワード6世(9歳 在位1547〜53)はアン・ブーリンが姦通の罪で処刑されたのち、ヘンリの妃となったジェイン・シーモアが生んだ待望の男子で、プロテスタントとして養育されていた。ヘンリは1544年「王位継承法」を制定し、エドワード、メアリ、エリザベスの順の継承順位を定めている。この順に王位に就いた後テューダー朝は途絶えた。
ハートフォード伯は国王の叔父として、摂政の地位とサマセット公の爵位をえて、枢密院を支配下に置いて統治の実権を握った。のちに宗教改革のシンボルとされた「敬虔な少年王」は後見役の有力貴族の支配によるものだった。
サマセット公のもとで「六カ条法(1539年)」などプロテスタント信仰の妨げになる諸法律を廃止した。1549年に「礼拝統一法」を制定し、カンタベリ大司教作成の「共通祈祷書」に基づいて英語による礼拝を義務づけ、違反者には罰則を課した。内容的には穏やかなものだったが、使用強制にたいして、旧来のラテン語による礼拝を求める反乱も起きた。
1540年代
新国王エドワード6世(9歳 在位1547〜53)はアン・ブーリンが姦通の罪で処刑されたのち、ヘンリの妃となったジェイン・シーモアが生んだ待望の男子で、プロテスタントとして養育されていた。ヘンリは1544年「王位継承法」を制定し、エドワード、メアリ、エリザベスの順の継承順位を定めている。この順に王位に就いた後テューダー朝は途絶えた。
ハートフォード伯は国王の叔父として、摂政の地位とサマセット公の爵位をえて、枢密院を支配下に置いて統治の実権を握った。のちに宗教改革のシンボルとされた「敬虔な少年王」は後見役の有力貴族の支配によるものだった。
サマセット公のもとで「六カ条法(1539年)」などプロテスタント信仰の妨げになる諸法律を廃止した。1549年に「礼拝統一法」を制定し、カンタベリ大司教作成の「共通祈祷書」に基づいて英語による礼拝を義務づけ、違反者には罰則を課した。内容的には穏やかなものだったが、使用強制にたいして、旧来のラテン語による礼拝を求める反乱も起きた。
1540年代
一方急進的なプロテスタントは不満で、1552年にはさらにプロテスタント的な「第二共通祈祷書」がつくられ「第二礼拝統一法」によってその使用が義務づけられた。1553年にはエドワード時代の宗教改革の頂点になる「四十二カ条」の信仰箇条が定められた。ヘンリ時代からの教会財産の没収も進められ、これらの教会財産はサマセット公たちの手に渡った。
サマセット公はヘンリ8世と同様に、エドワードとメアリ・スチュアートの結婚による両王国の統合を図ったが、拒否されて戦いとなって、スコットランド軍を破った。しかしこの戦いの結果、スコットランドはフランスと同盟し、1548年、メアリはフランス王アンリ2世のもとに逃れ、のちに皇太子と結婚することになった。イングランドはフランスとの戦争を続けることになり、その戦費負担は重くのしかかった。
1549年のラテン語による礼拝を求める反乱に続いて、「囲い込み」反対を訴える農民たちの反乱「ケットの乱」が起きた。毛織物貿易の拡大にともない、羊毛生産の土地確保のためにノーフォークで進行していた囲い込みにたいして、農民の不満がつのっていた。サマセット公自身が囲い込みに否定的見解を持っていたため、反乱鎮圧に適切な方策がとれず、その責任を問われて捕らえられ、ロンドン塔に送られた。
世界各国史11 イギリス史
サマセット公はヘンリ8世と同様に、エドワードとメアリ・スチュアートの結婚による両王国の統合を図ったが、拒否されて戦いとなって、スコットランド軍を破った。しかしこの戦いの結果、スコットランドはフランスと同盟し、1548年、メアリはフランス王アンリ2世のもとに逃れ、のちに皇太子と結婚することになった。イングランドはフランスとの戦争を続けることになり、その戦費負担は重くのしかかった。
1549年のラテン語による礼拝を求める反乱に続いて、「囲い込み」反対を訴える農民たちの反乱「ケットの乱」が起きた。毛織物貿易の拡大にともない、羊毛生産の土地確保のためにノーフォークで進行していた囲い込みにたいして、農民の不満がつのっていた。サマセット公自身が囲い込みに否定的見解を持っていたため、反乱鎮圧に適切な方策がとれず、その責任を問われて捕らえられ、ロンドン塔に送られた。
世界各国史11 イギリス史