
ヘンリ8世 宗教改革とスコットランド対策
イングランドの宗教改革(国教会)は政治的なもので、ヘンリ8世自身の宗教信条はカトリックと大きく変わるものではなかった。教会の階層的な制度「主教制」は残され、ノーフォーク公、ウィンチェスタ主教などの保守派も力を維持していた。1539年の信仰箇条を定めた「六カ条法」も保守派の影響を受けている。
1540年、外交で失敗したクロムウェルは逮捕され、反逆者として処刑された。その後ヘンリは「親政」を始め、政務にかんしては枢密院が順調に機能した。親プロテスタント的勢力も増えてきて、その中心、皇太子エドワードの叔父ハートフォード伯エドワード・シーモアはノーフォーク公と権力を争うことになる。
1536年アン・ブーリンは処刑され、ヘンリはジェイン・シーモアと結婚した。
1540年代
世界各国史11 イギリス史
1540年、外交で失敗したクロムウェルは逮捕され、反逆者として処刑された。その後ヘンリは「親政」を始め、政務にかんしては枢密院が順調に機能した。親プロテスタント的勢力も増えてきて、その中心、皇太子エドワードの叔父ハートフォード伯エドワード・シーモアはノーフォーク公と権力を争うことになる。
1536年アン・ブーリンは処刑され、ヘンリはジェイン・シーモアと結婚した。
1540年代
世界各国史11 イギリス史
ヘンリ7世の婚姻政策でスコットランドとは、一時的に和平が維持されていたが、1509年、ヘンリ8世即位の際、ヘンリの姉婿スコットランド王ジェイムズ4世はイングランドへの侵攻を試みた。しかし大敗し、ジェイムズは戦死、貴族の半数を失う結果となった。この後スコットランドはフランスと結び、イングランドにとって脅威になっていた。
1542年、スコットランド王ジェイムズ5世(在位1513〜42)がイングランドとの戦いのなかで死去、生まれたばかりのメアリ・ステュアート(在位1542〜67)が即位した。
ヘンリは皇太子エドワードとメアリの婚姻(スコットランドの併合)を画策したが失敗し、フランスと直接対決することになった。1544年、カール5世と結んだヘンリはフランスへ侵攻したが、ブーローニュを占領しただけで、多額の戦費負担が残った。その補填のため王領地が売却され、貨幣が悪鋳された。
1542年、スコットランド王ジェイムズ5世(在位1513〜42)がイングランドとの戦いのなかで死去、生まれたばかりのメアリ・ステュアート(在位1542〜67)が即位した。
ヘンリは皇太子エドワードとメアリの婚姻(スコットランドの併合)を画策したが失敗し、フランスと直接対決することになった。1544年、カール5世と結んだヘンリはフランスへ侵攻したが、ブーローニュを占領しただけで、多額の戦費負担が残った。その補填のため王領地が売却され、貨幣が悪鋳された。