
オスマン軍 ハンガリーに駐屯
1541年のオスマン帝国の侵入を前に、ハンガリー中・南部の旧支配者層はハプスブルク支配域やトランシルヴァニアに逃れていった。
オスマン勢力が進出した地域(縦縞の部分)はオスマン領となり、ブダ州とテメシュヴァール州がおかれた。州(ヴィラーイェット)はいくつかの県(サンジャク)に分かれ、さらに郡(カザ)に分かれていた。州にはベイレルベイ、県にはサンジャク・ベイが中央より軍政官として派遣され、それぞれの地域を軍事・行政単位として管轄した。
オスマン帝国では支配した土地は、原理的にすべてスルタンに帰属した。スルタンは検地をおこなって担税能力をはかり、封土に分けて土地の徴税権を在地のスパーヒー(騎兵)に分配した。
キリスト教徒の農民は人頭税(ハンガリーではジスエ、ハラーチュと呼ばれた)と十分の一税の支払いが求められた。旧来と比較してそれほど重くなく、賦役が禁止されていたため、むしろ好ましいものだった。 1540年代
世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史
オスマン勢力が進出した地域(縦縞の部分)はオスマン領となり、ブダ州とテメシュヴァール州がおかれた。州(ヴィラーイェット)はいくつかの県(サンジャク)に分かれ、さらに郡(カザ)に分かれていた。州にはベイレルベイ、県にはサンジャク・ベイが中央より軍政官として派遣され、それぞれの地域を軍事・行政単位として管轄した。
オスマン帝国では支配した土地は、原理的にすべてスルタンに帰属した。スルタンは検地をおこなって担税能力をはかり、封土に分けて土地の徴税権を在地のスパーヒー(騎兵)に分配した。
キリスト教徒の農民は人頭税(ハンガリーではジスエ、ハラーチュと呼ばれた)と十分の一税の支払いが求められた。旧来と比較してそれほど重くなく、賦役が禁止されていたため、むしろ好ましいものだった。 1540年代
世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史
ハンガリーでは住民のイスラム教への大量改宗がみられなく、オスマンの統治制度が定着しなかった。しかし都市ではハンガリー人とオスマン人の日常的な交流がみられたし、トランシルヴァニアのようにスルタンの宗主権を認めた地域もあった。

