
ジグムント1世に「法の執行」を要求
1506年に即位したジグムント1世(〜48)は1525年のプロイセン臣従によって騎士団問題に決着をつけ、1533年にはオスマン帝国とも和平条約を結んだ。しかしモスクワ大公国との争いは続き、東南部ではタタール人の襲撃が繰り返されていた。東南部防衛のために兵力を常駐させる必要があったが、そのための財源が不足していた。財源となる王領地は、多くが歴代の国王によって有力貴族に授貸与されていた。1504年に王領地の授与・質入を制限する法令ができていたが、ジグムント1世は毎年のように議会を開いて課税への同意を得、王領地の配分を調整するなどして財政再建を図っていた。
1530年代
世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史
1530年代
世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史
しかし、その政策は元老院を中心に進められ、それが代議院のシュラフタには不満だった。彼らは過去に定められた諸権利が十分に守られていないとして公正な「法の執行」を要求した。官職や王領地の授与が大貴族に偏っていることを批判し、1518年にイタリアから嫁いだ王妃が官職や王領地を一部の有力者に優先的に配分したこと、また王の生前に次期王として、王の息子ジグムント・アウグスト選出を強行したことに反発した。
1537年、王がモルダヴィア遠征のためにシュラフタを総動員した際に彼らの不満が噴出した。ルヴフ(リヴィウ)近郊に集まったシュラフタはロコシュ(王権の不正に抵抗するために武装して集まったシュラフタの集会)を結成し、遠征を拒否して王と王妃を非難した(ニワトリ戦争)。王は総動員を撤回して譲歩したが、王権とシュラフタの緊張関係は続いた。
1537年、王がモルダヴィア遠征のためにシュラフタを総動員した際に彼らの不満が噴出した。ルヴフ(リヴィウ)近郊に集まったシュラフタはロコシュ(王権の不正に抵抗するために武装して集まったシュラフタの集会)を結成し、遠征を拒否して王と王妃を非難した(ニワトリ戦争)。王は総動員を撤回して譲歩したが、王権とシュラフタの緊張関係は続いた。
