
宗教改革 檄文事件
1521年、パリ大学神学部の人文主義者によって教会内部からの改革運動が始まった。1523年、ルフェーヴル・デタープルは新約聖書のフランス語訳をおこない、人文主義者のなかには改革を民衆に伝える者が現れ、また商人や渡り職人によってルター派の福音主義が都市の知識層や庶民に広がった。
フランソワ1世が人文主義者に理解を示していたこともあって、王権は当初、改革に寛容だった。ハプスブルク家と対抗していたヴァロワ王権は、神聖ローマ帝国内のルター派諸侯の動向にも注視する必要があった。
フランソワ1世が人文主義者に理解を示していたこともあって、王権は当初、改革に寛容だった。ハプスブルク家と対抗していたヴァロワ王権は、神聖ローマ帝国内のルター派諸侯の動向にも注視する必要があった。
しかし、1534年にプロテスタント急進派が、王宮や諸都市にカトリックのミサを非難する文書を貼る、檄文事件が起きると王権は厳しい対応に転じた。王権の統制下に置かれていたフランスの教会は、王権にとって統治のために不可欠な組織になっていた。その教会への行きすぎた攻撃は認められないものだった。
1547年に即位した、アンリ2世(在位1547〜59)は、さらに厳しく、パリ高等法院内に異端取り締まりのための火刑裁判所を設けている。
1530年代
世界各国史12 フランス史
1547年に即位した、アンリ2世(在位1547〜59)は、さらに厳しく、パリ高等法院内に異端取り締まりのための火刑裁判所を設けている。
1530年代
世界各国史12 フランス史