
ミュンスター千年王国
ルター派の考えは1517〜18年頃にはドイツ商人を通してアントウェルペンに入り、低地地方南部に広まっていった。カール5世はカトリック教会の保護者の立場を堅持していたが、執政マルグリートは当初強い対応はとらなかった。
1520年カールは異端に対する最初の「布告文(プラカード)」を出した。1521年4月ヴォルムスの帝国議会でルターを追放に処した後、低地地方ではヴォルムスの勅令厳守を命じ、スペインの異端審問裁判所を参考に異端撲滅手段の組織化を始めた。
1523年7月宗教改革最初の殉教者としてアウグスティヌス会修道士2人がブリュッセルの大広場で火刑にされた。1524年には教皇クレメンス7世から異端審問官が低地地方に派遣され、以後プロテスタント関係の書物の焼却や発禁、ルター派の財産没収などを命じる布告が次々と出された。
1530年頃になると再洗礼派の運動が低地地方に伝えられた。1531年以降アムステルダムがその布教の中心となるとともに現社会秩序の否定という革命的性格を強めていった。1531年執政マリは再洗礼派の探索を諸州に命じている。
世界各国史14 スイス・ベネルクス史 1530年代
1520年カールは異端に対する最初の「布告文(プラカード)」を出した。1521年4月ヴォルムスの帝国議会でルターを追放に処した後、低地地方ではヴォルムスの勅令厳守を命じ、スペインの異端審問裁判所を参考に異端撲滅手段の組織化を始めた。
1523年7月宗教改革最初の殉教者としてアウグスティヌス会修道士2人がブリュッセルの大広場で火刑にされた。1524年には教皇クレメンス7世から異端審問官が低地地方に派遣され、以後プロテスタント関係の書物の焼却や発禁、ルター派の財産没収などを命じる布告が次々と出された。
1530年頃になると再洗礼派の運動が低地地方に伝えられた。1531年以降アムステルダムがその布教の中心となるとともに現社会秩序の否定という革命的性格を強めていった。1531年執政マリは再洗礼派の探索を諸州に命じている。
世界各国史14 スイス・ベネルクス史 1530年代
1534年再洗礼派はアムステルダムで蜂起、同市を掌握したが、脅威を感じた諸都市は敵意を表した。断首、火刑、溺死刑の布告が出され、新教徒も敵意を示した。同じ1534年ミュンスターで反乱が起きたとき、再洗礼派は市を占領し、一夫多妻制と財産共有による「新エルサレム」を建設した。1535年6月、ミュンスター千年王国は新旧諸侯軍の攻撃を受けて陥落、首謀者の処刑で収束した。
以後再洗礼派は分裂し、穏和な宗派となって諸都市で共同体を維持した。フリースラントのヴィットマルスムの司祭は暴力を否定、再生の喜びを説いて平和的な集団洗礼派をつくった。
新教と再洗礼派への弾圧が続くなか、人文主義者たちはカトリックに接近していった。1545年カールは諸州に異端審問官を設置、50年には彼らを皇帝の役人とみなす命令を出した。1546年には印刷業者に新教関係の著作の発刊を死罪で禁止した。
これらの弾圧は新教徒をドイツに亡命させることになり、商人の到来を妨げるとして都市が反対し始め、1550年以降再洗礼派を除く新教徒への対応は緩められた。
1540年頃からカルヴァン主義がフランスとの国境近くから広がってきた。初めは再洗礼派と混同されていたが、強固な教会組織、商業的利益と合致する教義で都市の手工業者・商人のあいだで広まり、アントウェルペンがその拠点となった。
以後再洗礼派は分裂し、穏和な宗派となって諸都市で共同体を維持した。フリースラントのヴィットマルスムの司祭は暴力を否定、再生の喜びを説いて平和的な集団洗礼派をつくった。
新教と再洗礼派への弾圧が続くなか、人文主義者たちはカトリックに接近していった。1545年カールは諸州に異端審問官を設置、50年には彼らを皇帝の役人とみなす命令を出した。1546年には印刷業者に新教関係の著作の発刊を死罪で禁止した。
これらの弾圧は新教徒をドイツに亡命させることになり、商人の到来を妨げるとして都市が反対し始め、1550年以降再洗礼派を除く新教徒への対応は緩められた。
1540年頃からカルヴァン主義がフランスとの国境近くから広がってきた。初めは再洗礼派と混同されていたが、強固な教会組織、商業的利益と合致する教義で都市の手工業者・商人のあいだで広まり、アントウェルペンがその拠点となった。