
第1次カペル戦争
スイスには多くの「共同支配地」があった。それぞれの支配邦が宗教的に対立している場合、どちらの宗教にするかが問題となった。1415年のアールガウ占領時にバーデン伯領を共同支配地にしたとき以来、関与している盟約者団メンバーの多数決で決められることになっていた。支配邦のほとんどが8邦時代のメンバー(原初三邦、ルツェルン、チューリヒ、グラールス、ツーク、ベルン)で改革派にとって不利な状況だった。
チューリヒ・ツヴィングリは2つの方法を模索した。
1 「共同支配地」への宗教改革の導入で「共同体原理」を主張する
2 「共同支配地」の統治に対するカトリック諸邦の権限を縮小するか、排除する
「共同支配地」での「共同体原理」は共同統治者の多数決ではなく、「共同支配地」各ゲマインデでの多数決で信仰問題を決定するという主張。ローマ教会からの自立には有効な考え方といえるが、再洗礼派の農村への浸透の可能性もあった。
1528年1月、ベルンは宗教討論会を経て全支配領域に宗教改革を導入することを決定、各ゲマインデの同意を得て実施に向かった。
ベルナー・オーバーラントでは宗教改革によるインターラーケン修道院の廃止後、修道院の財産をもとにベルンからの自立を図って
チューリヒ・ツヴィングリは2つの方法を模索した。
1 「共同支配地」への宗教改革の導入で「共同体原理」を主張する
2 「共同支配地」の統治に対するカトリック諸邦の権限を縮小するか、排除する
「共同支配地」での「共同体原理」は共同統治者の多数決ではなく、「共同支配地」各ゲマインデでの多数決で信仰問題を決定するという主張。ローマ教会からの自立には有効な考え方といえるが、再洗礼派の農村への浸透の可能性もあった。
1528年1月、ベルンは宗教討論会を経て全支配領域に宗教改革を導入することを決定、各ゲマインデの同意を得て実施に向かった。
ベルナー・オーバーラントでは宗教改革によるインターラーケン修道院の廃止後、修道院の財産をもとにベルンからの自立を図って
いた。しかし3月、修道院長は支配権を都市に引き渡し、財宝・銀器もベルンに持ち去られた。4月、憤激した農民たちはカトリックに戻り、オーバーラント地方が独立した農民邦になることを求めて都市ベルンと修道院に対して蜂起、各地でミサが復活した。7月、カトリック5邦は会議で、カトリックを保護するためにベルンの臣下を支援する決定をした。9月末、オーバーラントの人々は再び蜂起、インターラーケン修道院を占拠、ランツゲマインデ(住民集会)で「カトリックにとどまり、ベルンには従わない」ことを決定した。翌日ベルンは軍を投入、ウンターヴァルデン軍が助勢に入ったが蜂起はつぶされ、ベルン軍はインターラーケンに進駐した。
「シュタンス協定」第5条は、他邦の内紛に関与することを禁じていて、ウンターヴァルデン軍の派遣は違反していた。チューリヒとベルンはウンターヴァルデンを「共同支配地」の統治から排除することを決定したが実現しなかった。また「共同体原理」の適用も盟約者団会議は受け入れなかった。
1529年6月、チューリヒは武力に訴え、第1次カペル戦争になった。グラールスの調停で戦闘にはならず、「共同支配地」と従属邦での「共同体原理」の実施が承認された。
世界各国史14 スイス・ベネルクス史 1520年代
「シュタンス協定」第5条は、他邦の内紛に関与することを禁じていて、ウンターヴァルデン軍の派遣は違反していた。チューリヒとベルンはウンターヴァルデンを「共同支配地」の統治から排除することを決定したが実現しなかった。また「共同体原理」の適用も盟約者団会議は受け入れなかった。
1529年6月、チューリヒは武力に訴え、第1次カペル戦争になった。グラールスの調停で戦闘にはならず、「共同支配地」と従属邦での「共同体原理」の実施が承認された。
世界各国史14 スイス・ベネルクス史 1520年代