
スレイマン1世 第1次ウィーン包囲
ボヘミアとハンガリーの貴族はハプスブルク家の君主専制的支配を嫌い、フェルディナントを国王として迎えることに強く抵抗した。ボヘミアは王国国制の伝統と諸身分の特権の尊重を誓約することでフェルディナントを国王として選出した。
一方ハンガリーの状況は複雑になっていた。モハーチの4ヵ月後、フェルディナントが国会で国王に選出された。しかしそれに先だってトランシルヴァニア出身の大領主サポヤイ・ヤーノシュ(在位1526〜40)が民族王として中小貴族の支持を受けて選挙されていた。両者の軍事力の差は大きく、サポヤイはポーランドへ逃亡した。ボーランドやフランスに援助を求めたが、実質的な支援は得られず、スルタンの庇護を求めた。
スレイマン大帝の第1次ウィーン包囲はサポヤイへの支持を明確にし、ハプスブルク家のハンガリーでの勢力拡大を牽制する意図でおこなわれたともされる。
1540年にサポヤイが死去すると、フェルディナントは新たな民族王が選ばれないように、ブダを攻囲した。スレイマンは庇護下にあった王の継承者への支援と、ハプスブルク勢力を抑えるためにハンガリーに親征した。
1541年の親征は、それまで軍の大半が撤退していたのに対し、ハンガリー中・南部に大規模な軍が駐屯軍として残されることになった。そのためハンガリーの中・南部はオスマン帝国の直轄領に、北部・北西部・クロアチアはハプスブルク支配域、東部はサポヤイの息子ヤーノシュ・ジグモンドを君主とし、オスマンの宗主権を認める東ハンガリー王国(のちのトランシルヴァニア侯国)の三つに分けられることになった。この状態は150年余り続くことになる。
1520年代
世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史
一方ハンガリーの状況は複雑になっていた。モハーチの4ヵ月後、フェルディナントが国会で国王に選出された。しかしそれに先だってトランシルヴァニア出身の大領主サポヤイ・ヤーノシュ(在位1526〜40)が民族王として中小貴族の支持を受けて選挙されていた。両者の軍事力の差は大きく、サポヤイはポーランドへ逃亡した。ボーランドやフランスに援助を求めたが、実質的な支援は得られず、スルタンの庇護を求めた。
スレイマン大帝の第1次ウィーン包囲はサポヤイへの支持を明確にし、ハプスブルク家のハンガリーでの勢力拡大を牽制する意図でおこなわれたともされる。
1540年にサポヤイが死去すると、フェルディナントは新たな民族王が選ばれないように、ブダを攻囲した。スレイマンは庇護下にあった王の継承者への支援と、ハプスブルク勢力を抑えるためにハンガリーに親征した。
1541年の親征は、それまで軍の大半が撤退していたのに対し、ハンガリー中・南部に大規模な軍が駐屯軍として残されることになった。そのためハンガリーの中・南部はオスマン帝国の直轄領に、北部・北西部・クロアチアはハプスブルク支配域、東部はサポヤイの息子ヤーノシュ・ジグモンドを君主とし、オスマンの宗主権を認める東ハンガリー王国(のちのトランシルヴァニア侯国)の三つに分けられることになった。この状態は150年余り続くことになる。
1520年代
世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史

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