
サラゴーサ条約とインド領のポルトガル人
1519年にスペインを出港したマゼラン艦隊の1隻、ビクトリア号が1522年モルッカ諸島の香辛料を持ち帰った。このことでスペインとポルトガルのあいだで、モルッカ諸島の領有権問題が起きた(トルデシーリャス条約の子午線がアジアのどこを通るかわからなかった)。
1529年のサラゴーサ条約で、スペインは35万ドゥカードとフィリピンの確保を条件に、モルッカ諸島の領有権主張を放棄した。以後半世紀にわたりポルトガルは交易拠点帝国の利益を独占的に得ることができた。
インド領を支えるために、年平均2400人のポルトガル人が移住した。人手不足を補うため、総督アルブケルケは現地人との混血を奨励し、1540年までにインド洋の拠点にとどまったヨーロッパ人とその子孫は1万人に達していた。ポルトガル王の布教保護権(1455年)は、1514年教皇レオ10世の勅書で東アジアまで広がっていた。ゴアなどの重要拠点には司教座がおかれ、セミナリオ(初級・中級の神学校)、コレジオ(上級の学院)が設立された。イエズス会はポルトガル国王の支援を受けて、アジアでの布教を進めた。
ポルトガル王室は「インド商務院」で海外交易を統括していた。香辛料、金、砂糖などがフランドルの商館でヨーロッパ市場に売られ、銀、銅、工業製品が輸入されて交易拠点に供給された。金、銀、香辛料の取引は王室独占とされ、1519年までの海外交易による収益は国家収入の6割を越えていた。
1529年のサラゴーサ条約で、スペインは35万ドゥカードとフィリピンの確保を条件に、モルッカ諸島の領有権主張を放棄した。以後半世紀にわたりポルトガルは交易拠点帝国の利益を独占的に得ることができた。
インド領を支えるために、年平均2400人のポルトガル人が移住した。人手不足を補うため、総督アルブケルケは現地人との混血を奨励し、1540年までにインド洋の拠点にとどまったヨーロッパ人とその子孫は1万人に達していた。ポルトガル王の布教保護権(1455年)は、1514年教皇レオ10世の勅書で東アジアまで広がっていた。ゴアなどの重要拠点には司教座がおかれ、セミナリオ(初級・中級の神学校)、コレジオ(上級の学院)が設立された。イエズス会はポルトガル国王の支援を受けて、アジアでの布教を進めた。
ポルトガル王室は「インド商務院」で海外交易を統括していた。香辛料、金、砂糖などがフランドルの商館でヨーロッパ市場に売られ、銀、銅、工業製品が輸入されて交易拠点に供給された。金、銀、香辛料の取引は王室独占とされ、1519年までの海外交易による収益は国家収入の6割を越えていた。
アジア交易の実態は「王室独占」とはならなかった。香辛料の生産すべてを掌握することは難しく、需要が増えたために胡椒の生産地は東南アジア各地に広がっていった。ヨーロッパにもたらされたモルッカ諸島のクローブは生産量の8分の1以下だった。またインド領は支配下の諸港での交易を奨励して関税を徴収していた。インド領の収入になったが、西アジアの隊商路に香辛料を供給することになり、既存の香辛料ルートを維持させることになった。紅海ルートも完全な遮断はできず、16世紀半ばには旧ルートの交易量は喜望峰航路と匹敵するまでに回復した。
ポルトガル王室は1550年代以降、王室貿易の一部を特権として大貴族や騎士団に譲渡するようになった。またインド領の役人や王室船の乗員は、船内にスペースを与えられ、自費で購入した香辛料をインド領の経費で輸送する、私貿易をすることができた。王室の香辛料貿易は16世紀半ば以降減少していくが、インド・ペルシアの宝石、絹、インドの綿製品、中国の陶磁器などの取り扱いが増えたため、17世紀半ばまで好調が維持された。またポルトガル人はアジア内の地域間交易に参入した。1543年に日本の種子島に漂着して鉄砲を伝え、57年に明からマカオを貸借すると、中国の生糸・金と日本の銀を取引する中継貿易で多くの収益をあげるようになった(日本の金・銀の交換比率がほかの諸国と違っていて、容易に利益を得られたらしい)。
1520年代 ヨーロッパ史年表
世界各国史16 スペイン・ポルトガル史
ポルトガル王室は1550年代以降、王室貿易の一部を特権として大貴族や騎士団に譲渡するようになった。またインド領の役人や王室船の乗員は、船内にスペースを与えられ、自費で購入した香辛料をインド領の経費で輸送する、私貿易をすることができた。王室の香辛料貿易は16世紀半ば以降減少していくが、インド・ペルシアの宝石、絹、インドの綿製品、中国の陶磁器などの取り扱いが増えたため、17世紀半ばまで好調が維持された。またポルトガル人はアジア内の地域間交易に参入した。1543年に日本の種子島に漂着して鉄砲を伝え、57年に明からマカオを貸借すると、中国の生糸・金と日本の銀を取引する中継貿易で多くの収益をあげるようになった(日本の金・銀の交換比率がほかの諸国と違っていて、容易に利益を得られたらしい)。
1520年代 ヨーロッパ史年表
世界各国史16 スペイン・ポルトガル史