
グスタヴ・ヴァーザ ヴェステロースの国会
ヴィッテンベルク大学で学んだオラーウス・ペートリは、教会財産は国王が管理すべきだと主張した。1524年にカトリック教会から破門されたが、グスタヴ・ヴァーザは彼を保護し、ストックホルムの教会で説教させ、市参事会の顧問となり、1531年から33年まで王の顧問官になった。
1526年、王がリューベックへの支払いのために、十分の一税の三分の二を徴発し、再びダーラナで聖職者に扇動された反乱が起きた。1527年、王はヴェステロースに全国身分制議会を召集した。代表者の名簿が保存されている最初の「身分制国会」。王は国家の歳入と支出を説明し、教会財産を要求したが、聖職者たちはローマ教皇の許可がなければ教会財産の譲渡はできないと主張した。王はスウェーデンの財産の処分をスウェーデン人が決められないなら、王としてとどまれないと宣言して退場した。
代表者たちの議論でスウェーデンにはグスタヴ・ヴァーザが必要という結論に達して、王は呼び戻された。市民・農民の圧力に聖職者・貴族が屈した。
1520年代
1526年、王がリューベックへの支払いのために、十分の一税の三分の二を徴発し、再びダーラナで聖職者に扇動された反乱が起きた。1527年、王はヴェステロースに全国身分制議会を召集した。代表者の名簿が保存されている最初の「身分制国会」。王は国家の歳入と支出を説明し、教会財産を要求したが、聖職者たちはローマ教皇の許可がなければ教会財産の譲渡はできないと主張した。王はスウェーデンの財産の処分をスウェーデン人が決められないなら、王としてとどまれないと宣言して退場した。
代表者たちの議論でスウェーデンにはグスタヴ・ヴァーザが必要という結論に達して、王は呼び戻された。市民・農民の圧力に聖職者・貴族が屈した。
1520年代
ヴェステロースの国会で、1454年以降に教会領となった土地はすべて没収され、司教の所有する館や城は王のものとなり、ローマ教皇庁に支払われていたものは王に支払われ、世俗の事件に関しては聖職者も王の裁判権に服することになった。実際は制限なしに教会関係の土地は王領地となり、大司教、司教の叙任は国王権限になった。教義についての議論がないまま、ルター派への宗教改革がおこなわれた。
1528年フィンランドのオーボ(トゥルク)司教が教皇の承認なしに選出・叙階され、3年後にはスウェーデンのすべての司教も同様に叙階された。1536年にはスウェーデンの教会は福音派国教会と宣言された。しかし学問・教義的変化は緩慢で、1595年になってカトリック的礼拝が禁止され、最後の僧院が閉鎖された。
1590年代の内戦でプロテスタント派が勝利して、カトリック教徒で、スウェーデンとポーランドの王だったシーギスムンド王はスウェーデンでの権力を失った。こうした過程でスウェーデン人に「国民」という意識がつくられていった。
世界各国史21 北欧史
1528年フィンランドのオーボ(トゥルク)司教が教皇の承認なしに選出・叙階され、3年後にはスウェーデンのすべての司教も同様に叙階された。1536年にはスウェーデンの教会は福音派国教会と宣言された。しかし学問・教義的変化は緩慢で、1595年になってカトリック的礼拝が禁止され、最後の僧院が閉鎖された。
1590年代の内戦でプロテスタント派が勝利して、カトリック教徒で、スウェーデンとポーランドの王だったシーギスムンド王はスウェーデンでの権力を失った。こうした過程でスウェーデン人に「国民」という意識がつくられていった。
世界各国史21 北欧史