
プロイセン公国
16世紀のポーランド・リトアニアは「貴族の共和国」とも呼ばれる。国王・大公はいたが、人口の1割弱の貴族身分(シュラフタ)が選挙で国王を選び、身分制議会によって国政の主導権を握っていた。この「共和国」の領土は、拡大と統合によってバルト海から黒海北方のステップ地帯まで広がった。
バルト海沿岸地域のヴィスワ川下流域は、1466年のトルン条約で王領プロイセンとしてポーランド王国に併合されていた。1515年ポーランド王ジグムント1世(在位1506〜48)は皇帝マクシミリアン1世とウィーンで会見した。王はチェコとハンガリーでヤギェウォ家が途絶えたときには、ハプスブルク家が王位を継承することを認め、そのかわりに皇帝の騎士団への支持を撤回させた。
1520年代
世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史
バルト海沿岸地域のヴィスワ川下流域は、1466年のトルン条約で王領プロイセンとしてポーランド王国に併合されていた。1515年ポーランド王ジグムント1世(在位1506〜48)は皇帝マクシミリアン1世とウィーンで会見した。王はチェコとハンガリーでヤギェウォ家が途絶えたときには、ハプスブルク家が王位を継承することを認め、そのかわりに皇帝の騎士団への支持を撤回させた。
1520年代
世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史
ポーランドは騎士団との闘いを始め(1519〜21年)、騎士団長はルター派に改宗し1525年にクラクフでジグムント1世に臣従を誓った。東プロイセンの騎士団領はプロイセン公国となって、その公はポーランド国王の封臣となった。
リヴォニアでも1561年に騎士団領が世俗化され、南部がクルランディア公国として「共和国」の封土となり、リガを含む北部インフランティは「共和国」に併合され、1569年からはポーラントとリトアニアの共同統治領になった。
リトアニア大公国の東部では、モスクワ大公国との闘いの結果、1514年にスモレンスク地方が失われ、15世紀よりも領土は縮小した。マゾフシェは1526年にピアスト家が絶えて王国領に編入され、自治権が強かった王領プロイセンも1569年にその議会が「共和国」の議会制度に組み込まれて統合が強化された。
リヴォニアでも1561年に騎士団領が世俗化され、南部がクルランディア公国として「共和国」の封土となり、リガを含む北部インフランティは「共和国」に併合され、1569年からはポーラントとリトアニアの共同統治領になった。
リトアニア大公国の東部では、モスクワ大公国との闘いの結果、1514年にスモレンスク地方が失われ、15世紀よりも領土は縮小した。マゾフシェは1526年にピアスト家が絶えて王国領に編入され、自治権が強かった王領プロイセンも1569年にその議会が「共和国」の議会制度に組み込まれて統合が強化された。
