
グスタヴ・ヴァーザ スウェーデン国王に選出
1520年、連合王・デンマーク王クリスチャン2世の時代になってスウェーデン遠征が成功した。反連合派の指導者小ステーン・ステューレは戦死して、クリスチャンはストックホルムでスウェーデン王位を認められた。11月7日ストックホルムでおこなわれた王の戴冠を祝う宴で、城門が閉じられ、旧ステューレ派の聖俗の有力者、ストックホルム市長、参事会員などドイツ人を中心とする有力市民多数が処刑された。地方でも虐殺がおこなわれた。
処刑された参事会員、ヴァーザ家エーリックの息子がグスタヴ・ヴァーザ。クリスチャン2世によって人質としてコペンハーゲンに軟禁され、そこから逃亡中だったことで処刑を逃れた。
グスタヴ・ヴァーザは「ストックホルムの虐殺」の無法さと残酷さを扇動材料にして、1521年スウェーデン王国摂政に、23年独立スウェーデンの国王に選出された。デンマークとの戦いは続いていた。スウェーデン国内のデンマーク軍が駐屯する城塞を奪取するために海軍を創設し、リューベック艦隊の支援を受けた。
1523年、制度上カルマル連合は終わった。
処刑された参事会員、ヴァーザ家エーリックの息子がグスタヴ・ヴァーザ。クリスチャン2世によって人質としてコペンハーゲンに軟禁され、そこから逃亡中だったことで処刑を逃れた。
グスタヴ・ヴァーザは「ストックホルムの虐殺」の無法さと残酷さを扇動材料にして、1521年スウェーデン王国摂政に、23年独立スウェーデンの国王に選出された。デンマークとの戦いは続いていた。スウェーデン国内のデンマーク軍が駐屯する城塞を奪取するために海軍を創設し、リューベック艦隊の支援を受けた。
1523年、制度上カルマル連合は終わった。
グスタヴ・ヴァーザ(在位1523〜60)が統治を始めたとき、王権は本来の官僚も固有の軍隊ももっていなかった。デンマークからの独立戦争のためにリューベックと同盟し、多額の借金をした。戦争、海軍創設、貴族将校と志願兵(俸給を支払う、のちに徴兵制)による陸軍、俸給官僚、リューベックへの借金返済などで国家財政は急激に膨らんた。「地理上の発見」による貨幣価値の低下(価格革命)もあった。
グスタヴは増税、臨時税、間接税導入などで収入増を図った。教会や修道院はスウェーデンの全農場のうち21.3%を所有し、住民から十分の一税を徴収していた。1522年からグスタヴは教会から借金をするか寄付を求めていた。借金は返済されなかったため寄付と同じで、毎年の寄付は課税と同じだった。1525年,ダーラナの農民が蜂起した。王は譲歩し、和解したが、反乱の指導者だった聖職者たちを捕らえ、ストックホルムに連行して処刑した。
1520年代
世界各国史21 北欧史
グスタヴは増税、臨時税、間接税導入などで収入増を図った。教会や修道院はスウェーデンの全農場のうち21.3%を所有し、住民から十分の一税を徴収していた。1522年からグスタヴは教会から借金をするか寄付を求めていた。借金は返済されなかったため寄付と同じで、毎年の寄付は課税と同じだった。1525年,ダーラナの農民が蜂起した。王は譲歩し、和解したが、反乱の指導者だった聖職者たちを捕らえ、ストックホルムに連行して処刑した。
1520年代
世界各国史21 北欧史