
ボローニャの政教協約
1516年の「ボローニャの政教協約」によって、国内の教会を、教皇の干渉を排除して君主の統制下に置くという、国家教会への動きが強まった。前年のマリニャーノの勝利を背景に結ばれた協約で、国内の高位聖職者(大司教、司教、修道院長)の選定権を国王に委ねるというもの。長年にわたる教皇との争いに決着がつけられた。国王は国内の教会に対する教皇の影響力を弱めるとともに、子弟(次子、三子)を高位聖職者の職につけたい、有力貴族に対して大きな力を持つことになった。
ほかにも王権にとって利点があった。教会組織の末端に位置する教区教会は、人々の日常生活の枠組みとなっていた。この教区教会を使って統治組織の弱さを補うことができた。
ほかにも王権にとって利点があった。教会組織の末端に位置する教区教会は、人々の日常生活の枠組みとなっていた。この教区教会を使って統治組織の弱さを補うことができた。
1539年のヴィレール・コトレの王令では、各教区の司祭に洗礼記録を記載した教区簿冊をつけるように命じ、さらに1579年のブロワの王令では、婚姻・埋葬の記録を加えている。教区簿冊の写しは国王裁判所に提出することが義務づけられ、王権は「戸籍」を管理できるようになった。また王令は、日曜日のミサの時に司祭によって読み上げられ、文字が読めない人々にも伝えられた。
国内の教会は王権にとって王国統治の重要なパートナーになった。ヴィレール・コトレの王令では、公的な文書にフランス語の使用が義務づけられ、王権の言語であるフランス語の王国全域への普及がすすめられた。
1510年代
世界各国史12 フランス史
国内の教会は王権にとって王国統治の重要なパートナーになった。ヴィレール・コトレの王令では、公的な文書にフランス語の使用が義務づけられ、王権の言語であるフランス語の王国全域への普及がすすめられた。
1510年代
世界各国史12 フランス史