
ボヘミア王イジーとマーチャーシュ
ボヘミアでもハンガリーと同様、ジギスムント、ハプスブルク家のアルブレヒト2世、ラディスラウスが即位したが、ハプスブルク家の支配はほとんど名目的で選挙王制が実現していた。
1448年、東ボヘミアの貴族同盟の首領で聖杯派のイジーがプラハに入って政権を掌握し、1452年には摂政になった。任務は
「ボヘミア王冠諸邦」の分裂を阻止すること
教皇からバーゼル協約とプラハ大司教ロキツァナの承認を得ること
一方1456年にハンガリーに戻ったラディスラウスは
1457年フニャディ派との抗争で、フニャディの二人の息子をだまして捕らえ、長男ラースローを処刑した。これに怒ったフニャディ派が武装蜂起したため、王は次男マーチャーシュを人質にしてプラハに逃げ、そこで急死した、17歳。
1458年ハンガリー議会は多数の中小貴族によってマーチャーシュを国王に選出した。英雄フニャディの息子への期待を持った中小貴族の発言力が増していた。「聖王冠」がないため戴冠式は行えない。教皇ピウス2世が対オスマン十字軍でのマーチャーシュの活躍を期待して、マーチャーシュを支持したため、フリードリヒはハンガリー王位を諦めて、1463年に王冠を返還した。
「ボヘミア王冠諸邦」の分裂を阻止すること
教皇からバーゼル協約とプラハ大司教ロキツァナの承認を得ること
一方1456年にハンガリーに戻ったラディスラウスは
1457年フニャディ派との抗争で、フニャディの二人の息子をだまして捕らえ、長男ラースローを処刑した。これに怒ったフニャディ派が武装蜂起したため、王は次男マーチャーシュを人質にしてプラハに逃げ、そこで急死した、17歳。
1458年ハンガリー議会は多数の中小貴族によってマーチャーシュを国王に選出した。英雄フニャディの息子への期待を持った中小貴族の発言力が増していた。「聖王冠」がないため戴冠式は行えない。教皇ピウス2世が対オスマン十字軍でのマーチャーシュの活躍を期待して、マーチャーシュを支持したため、フリードリヒはハンガリー王位を諦めて、1463年に王冠を返還した。
1463年教皇の求めに応じてマーチャーシュはボスニアに遠征した。北部ボスニアを占拠したが戦況が膠着、王は北を目指すことにした。ボヘミア王位、皇帝位をうかがうことにした。
1458年、ボヘミアではイジーが下級貴族と市民の支持で国王になった。イジーは聖杯派とカトリックの共存、フス戦争中にゆらいだ王権の立て直しを図った。
しかし1462年に教皇ピウス2世がバーゼル協約の承認を正式に拒否、ボヘミアではカトリック派貴族がゼレナー・ホラ同盟を結成した。1466年教皇はイジーに異端宣告をくだし、マーチャーシュにボヘミア諸邦のカトリック貴族を支援するように求めた。
1468年マーチャーシュは対ボヘミア戦争を開始、翌年モラヴィアとシレジアのカトリック派の支持を得て、両地方の大半を支配下におき、オロモウツでボヘミア国王に選出された。しかしボヘミア地方には侵入できなかった。
ボヘミア王国 聖杯派の王イジー と カトリック派の王マーチャーシュ の対立
1450年代
世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史
1458年、ボヘミアではイジーが下級貴族と市民の支持で国王になった。イジーは聖杯派とカトリックの共存、フス戦争中にゆらいだ王権の立て直しを図った。
しかし1462年に教皇ピウス2世がバーゼル協約の承認を正式に拒否、ボヘミアではカトリック派貴族がゼレナー・ホラ同盟を結成した。1466年教皇はイジーに異端宣告をくだし、マーチャーシュにボヘミア諸邦のカトリック貴族を支援するように求めた。
1468年マーチャーシュは対ボヘミア戦争を開始、翌年モラヴィアとシレジアのカトリック派の支持を得て、両地方の大半を支配下におき、オロモウツでボヘミア国王に選出された。しかしボヘミア地方には侵入できなかった。
ボヘミア王国 聖杯派の王イジー と カトリック派の王マーチャーシュ の対立
1450年代
世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史