
セント・オールバンズの戦い バラ戦争始まる
1453年フランスとの戦いが終わってまもなく、ヘンリ6世の精神が異常になり、10月に生まれた王子を認識できないほどになった。王子誕生で相続人としての地位が危なくなったヨーク公は、11月の評議会でサマセット公を圧倒しロンドン塔に送った。翌年2月の評議会で、王妃マーガレットが摂政位を求めたが退けられ、3月貴族院の指名によってヨーク公が護国卿に就任した。しかし1454年末に王が意識を回復して、サマセット公を釈放したため、ヨーク公の護国卿としての立場は不利になった。
10月、ヨーク公は大評議会へ向かっていた、王、王妃、サマセット公一行をセント・オールバンズで軍事力によって拘束しようとした。戦いになってサマセット公は戦死、王は負傷して捕らえられた。ヨーク派は王とともにロンドンに戻ったが、王が正気のうちはヨーク公の権力は後退した。
10月、ヨーク公は大評議会へ向かっていた、王、王妃、サマセット公一行をセント・オールバンズで軍事力によって拘束しようとした。戦いになってサマセット公は戦死、王は負傷して捕らえられた。ヨーク派は王とともにロンドンに戻ったが、王が正気のうちはヨーク公の権力は後退した。
1455年6月、王の病気が再発するとヨーク公はマーシャル(軍務卿)に就き、義兄ソールズベリ伯の息子ウォリック伯をカレー総督にした。1456年2月に王の健康が回復すると、ヨーク公は王妃との和解を試みたりして、1458年には一時的にランカスタ王家とヨーク公の和解が成立した。その後王妃は軍事力で決着をつけようとし、1459年以後の戦いでヨーク派は不利となり、ヨーク公と次男はアイルランドへ逃れた。
勝利した宮廷派はヨーク派貴族の私権剥奪を決議し、その所領を没収し始めた。一方、ヨーク派は1460年6月に南部諸州を支配し、7月のノーサンプトンの戦いで王を捕らえて、王妃はウェールズへ逃れた。
1450年代
世界各国史11 イギリス史
勝利した宮廷派はヨーク派貴族の私権剥奪を決議し、その所領を没収し始めた。一方、ヨーク派は1460年6月に南部諸州を支配し、7月のノーサンプトンの戦いで王を捕らえて、王妃はウェールズへ逃れた。
1450年代
世界各国史11 イギリス史