
コンスタンティノープル陥落
ムラト2世(在位1421〜44、45〜46、46〜51)は隠遁生活に憧れ、何度か息子メフメット2世(在位1444、1445〜46、51〜81)に譲位したが、危機のたびに復位して、在位中の1451年に死去した。メフメット2世はエディルネで第7代君主に即位したが、若年君主の即位を好機として、カラマン君侯国が進攻してきた。さらに、ビザンツ皇帝コンスタンティノス11世は、コンスタンティノープルに亡命していたオスマン王族オルハンの監視料の値上げを要求してきた。
1452年、メフメット2世はアナトリアのカラマン討伐に向かい、講和を求めさせた。夏、メフメット2世はコンスタンティノープル征服の意図を明らかにして、コンスタンティノープルへ向かった。バヤズィット1世がボスフォラス海峡アジア岸に建設していたアナドル砦(アナドル・ヒサール 1390年頃)の対岸のヨーロッパ岸にルメリ砦(ルメリ・ヒサール)をビザンツ皇帝の抗議を無視して建設して、越冬のためにエディルネに戻った。
1453年春にかけて、メフメット2世はコンスタンティノープル征服の計画をたてた。コンスタンティノープル西側の大城壁攻略のためにハンガリー人ウルバヌスに巨砲を作らせ、帝国各地に兵員と物資の動員命令を出した。1453年3月末、西欧世界の反応を危惧する、父王以来の大宰相の反対を抑えてエディルネをたった。コンスタンティノープルを無傷で獲得することを望んだ、メフメット2世はコンスタンティノス11世に降伏勧告の使者を送ったが、拒否され包囲を始めた。
1450年代
世界各国史17 ギリシア史
地図 図説 イスタンブル歴史散歩 河出書房新社
1452年、メフメット2世はアナトリアのカラマン討伐に向かい、講和を求めさせた。夏、メフメット2世はコンスタンティノープル征服の意図を明らかにして、コンスタンティノープルへ向かった。バヤズィット1世がボスフォラス海峡アジア岸に建設していたアナドル砦(アナドル・ヒサール 1390年頃)の対岸のヨーロッパ岸にルメリ砦(ルメリ・ヒサール)をビザンツ皇帝の抗議を無視して建設して、越冬のためにエディルネに戻った。
1453年春にかけて、メフメット2世はコンスタンティノープル征服の計画をたてた。コンスタンティノープル西側の大城壁攻略のためにハンガリー人ウルバヌスに巨砲を作らせ、帝国各地に兵員と物資の動員命令を出した。1453年3月末、西欧世界の反応を危惧する、父王以来の大宰相の反対を抑えてエディルネをたった。コンスタンティノープルを無傷で獲得することを望んだ、メフメット2世はコンスタンティノス11世に降伏勧告の使者を送ったが、拒否され包囲を始めた。
1450年代
世界各国史17 ギリシア史
地図 図説 イスタンブル歴史散歩 河出書房新社
コンスタンティノープル守備の兵員は1万人を下回っていたが、城壁と海のために攻囲は難航した。オスマン側でも主戦派と和平派の対立が再燃し、ハンガリーからの介入の脅迫を含む書状も届いた。しかし西欧からの援軍が到来することはなく、5月29日の総攻撃でコンスタンティノープルは陥落し、皇帝は行方不明となって、ビザンツ帝国は滅亡した。

塩野七生著 コンスタンティノープルの陥落 新潮社 が思い起こされた。

塩野七生著 コンスタンティノープルの陥落 新潮社 が思い起こされた。