
フリードリヒ3世 ローマで皇帝戴冠
1452年フリードリヒ3世(在位1440〜93)はローマで正式に皇帝戴冠式をおこなった。教皇から帝冠を授かった最後の皇帝。帝国思想を教えられていたフリードリヒは皇帝権を再確立し、カトリック世界の支配者を目指したが、シュタイアーマルクなどの内オーストリアの支配だけでは皇帝としての権力基盤が小さすぎた。
当面の課題はボヘミアのイジー、マーチャーシュ王に対抗して、生き残りをはかることだった。フリードリヒはオーストリアの地位向上のために1358年に発表されたルドルフ4世の「大特許状」を皇帝として承認した。しかし実状は諸身分の発言権が増し、大公権力は弱体化していた。1453年にはオーストリアの諸身分が、プラハでハンガリーのフニャディやボヘミア摂政イジーと反フリードリヒ同盟を結成した。
1457年ラディスラウスが死去しアルブレヒト分家が断絶すると、全オーストリアをフリードリヒが統治することになるはずだったが、弟のアルブレヒト公が一部相続を求めてフリードリヒに反抗した。上オーストリアの諸身分がアルブレヒトについたため、フリードリヒは上オーストリアの統治権を弟に認めた。
1461年に再びアルブレヒトが反皇帝の動きをみせると、下オーストリアの諸身分とウィーン市民が呼応、フリードリヒは下オーストリアの支配権もアルブレヒトに与え、ウィーンを去ってヴィーナー・ノイシュタットに移った。1463年末にアルブレヒトが急死し、フリードリヒは全家領の支配者になれた。
1450年代
世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史
当面の課題はボヘミアのイジー、マーチャーシュ王に対抗して、生き残りをはかることだった。フリードリヒはオーストリアの地位向上のために1358年に発表されたルドルフ4世の「大特許状」を皇帝として承認した。しかし実状は諸身分の発言権が増し、大公権力は弱体化していた。1453年にはオーストリアの諸身分が、プラハでハンガリーのフニャディやボヘミア摂政イジーと反フリードリヒ同盟を結成した。
1457年ラディスラウスが死去しアルブレヒト分家が断絶すると、全オーストリアをフリードリヒが統治することになるはずだったが、弟のアルブレヒト公が一部相続を求めてフリードリヒに反抗した。上オーストリアの諸身分がアルブレヒトについたため、フリードリヒは上オーストリアの統治権を弟に認めた。
1461年に再びアルブレヒトが反皇帝の動きをみせると、下オーストリアの諸身分とウィーン市民が呼応、フリードリヒは下オーストリアの支配権もアルブレヒトに与え、ウィーンを去ってヴィーナー・ノイシュタットに移った。1463年末にアルブレヒトが急死し、フリードリヒは全家領の支配者になれた。
1450年代
世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史
1460年代末には再びオーストリア貴族の反乱があり、70年代にはハンガリー王マーチャーシュとの戦いが本格化するなどの苦労の中で、フリードリヒは息子マクシミリアンとブルゴーニュ公シャルル突進公の娘マリアとの婚約をまとめることができた。
晩年、1480年代にはマーチャーシュにウィーンまで占拠されるが、マーチャーシュより生きながらえて、占領された地域を取り戻すことができた。
晩年、1480年代にはマーチャーシュにウィーンまで占拠されるが、マーチャーシュより生きながらえて、占領された地域を取り戻すことができた。
