
フランチェスコ・スフォルツァ ミラノ公を継ぐ
1447年、フィリッポ・マリーアの死後、ミラノでは市民上層を中心とした共和政が復活し、市の守護聖人アンブロシウスに由来するアンブロージオ共和国が成立した。しかし、外部勢力に対抗する能力がなかったため、1450年、傭兵隊長だったフランチェスコ1世・スフォルツァが、武力でミラノを占領し、義父の公位を継承した。この継承は、名目的に妻の継承権によるもので、市民に認められるには、コムーネの承認が必要だった。一方、自らシニョーレとなり、代官を派遣する従属コムーネでは、住民たちの請願をできるだけ受け入れて懐柔した。公位継承をコムーネは承認したが、皇帝は承認しなかった。1454年、フランチェスコ・スフォルツァがヴェネツィア、フィレンツェ、教皇と結んだローディの和約で公位継承は国際的に承認された。
公位はフランチェスコの死後、1466年、息子ガレアッツォ・マリーアが継承し、さらに1476年、未成年の息子(フランチェスコの孫)ジャン・ガレアッツォ・マリーアが継承した。しかし1480年以後は、摂政となった叔父ルドヴィーコ・マリーア(通称イル・モーロ)が実権を握った。
ルドヴィーコ・マリーアは、フランス国王シャルル8世と同盟する一方で皇帝マクシミリアンとも友好関係をもち、1494年、ジャン・ガレアッツォ・マリーアの死後、皇帝から公位を得た。1494年、フランス国王シャルルがイタリアに侵入すると、一転、反シャルル同盟に参加した。98年にルイ12世がフランス国王になると、形成が逆転した。ルイ12世はオルレアン公ルイの孫で、祖母(フィリッポ・マリーアの姉)に由来する権利でミラノ公を自称し、1499年ミラノを占領した。ルドヴィーコ・マリーアは亡命したが、1500年捕虜としてフランスに送られ、1508年に死去した。
公位はフランチェスコの死後、1466年、息子ガレアッツォ・マリーアが継承し、さらに1476年、未成年の息子(フランチェスコの孫)ジャン・ガレアッツォ・マリーアが継承した。しかし1480年以後は、摂政となった叔父ルドヴィーコ・マリーア(通称イル・モーロ)が実権を握った。
ルドヴィーコ・マリーアは、フランス国王シャルル8世と同盟する一方で皇帝マクシミリアンとも友好関係をもち、1494年、ジャン・ガレアッツォ・マリーアの死後、皇帝から公位を得た。1494年、フランス国王シャルルがイタリアに侵入すると、一転、反シャルル同盟に参加した。98年にルイ12世がフランス国王になると、形成が逆転した。ルイ12世はオルレアン公ルイの孫で、祖母(フィリッポ・マリーアの姉)に由来する権利でミラノ公を自称し、1499年ミラノを占領した。ルドヴィーコ・マリーアは亡命したが、1500年捕虜としてフランスに送られ、1508年に死去した。