
ジャック・ケイドの一揆
宮廷派のサフォーク侯は、1448年に公の位を与えられたが、大陸遠征から帰国した兵たちの無法行為に対する脅威もあって、宮廷派に対する批判も増えていた。1450年1月宮廷派の王璽尚書が兵士に殺されたことをきっかけに、2月コモンズはサフォーク公を財政上の不正と無法状態の責任で弾劾した。公は王の慈悲で5年間の国外追放となったが、逃れる途中の船で捕らえられ斬首された。1450年5月、故辺境伯の庶子モーティマを自称するジャック・ケイドがケントの人々を率いて政府を批判した。ケイドはロンドン近郊に3万人を集め、宮廷派役人の一掃、王領地の回復、ヨーク公をアイルランドから呼び戻して評議会員とすることなどを要求した。その後ロンドン市内に入り宮廷派役人を殺したが、市民に不安が広がったため、多くは故郷へ戻った。ケイドは7月サセックスへ逃亡中に殺された。
ケイドの要求を知ったヨーク公リチャードは、9月兵を率いてアイルランドから戻った。当時評議会を指揮していたのは第二代サマセット公で、王や王妃、多くの諸侯から支持されていた。ヨーク公は王に不忠の意志がないことを釈明しなければならなかった。
ケイドの要求を知ったヨーク公リチャードは、9月兵を率いてアイルランドから戻った。当時評議会を指揮していたのは第二代サマセット公で、王や王妃、多くの諸侯から支持されていた。ヨーク公は王に不忠の意志がないことを釈明しなければならなかった。
ヨーク家の家宰が庶民院の議長になり、俸禄回収令が成立した。王がこれを承認したため、それまでに恩顧として与えられていた収入権が王室へ戻された。宮廷派のもとで利益を得ていた諸侯たちを失望させるものだったが、諸侯にも応分の財政負担を求めるコモンズの要求が実効あるものになった。1440年代以来の宮廷派の恩顧政策を批判する、コモンズや庶民の政治へのかかわりがみられるようになってきた。
1451年にボルドーとバヨンヌが失われ、政権担当者としてのサマセット公の人気が落ちてきた。ヨーク公はロンドンへ進軍し、王と会見してサマセット公の処分を求めた。王はヨーク公が評議会へ出席できるようにし、サマセット公の嫌疑がはれるまでの出入禁止を約束した。ヨーク公は軍を解散したが約束は守られず、サマセット公は権力を持ち続けヨーク公が逮捕されそうになった。サマセット公はボルドーに軍を派遣したが、1453年シャルル7世の軍に敗れ、7月にはカレーを残しでイングランドのフランスでの領地はなくなった。
1450年代
世界各国史11 イギリス史
1451年にボルドーとバヨンヌが失われ、政権担当者としてのサマセット公の人気が落ちてきた。ヨーク公はロンドンへ進軍し、王と会見してサマセット公の処分を求めた。王はヨーク公が評議会へ出席できるようにし、サマセット公の嫌疑がはれるまでの出入禁止を約束した。ヨーク公は軍を解散したが約束は守られず、サマセット公は権力を持ち続けヨーク公が逮捕されそうになった。サマセット公はボルドーに軍を派遣したが、1453年シャルル7世の軍に敗れ、7月にはカレーを残しでイングランドのフランスでの領地はなくなった。
1450年代
世界各国史11 イギリス史