
ヴワディスワフ3世(10歳)ポーランド王位に就く
1419年7月、プラハでフス派によって市庁舎が襲撃され(窓外放出事件)、これに衝撃を受けたヴェンツェル4世は翌月に急死した。フス派はチェコ王の後継にヴェンツェルの弟ジギスムントを拒否して、ヤギェウォを指名した。ヤギェウォは代わりにヴィトルドを推したりしていたが、一転して1424年にフス主義を禁じたヴィエルンの勅令を発布した。(王位には就いていない)
前年、オレシニツキがクラクフ司教に就任し、マウォポルスカのマグナート(大領主)の指導者になっていた。彼は公会議主義に立ち、フス主義を異端とした。1424年、ヤギェウォにヴワディスワフ(在位1434〜44)が生まれると、ヤギェウォ家の世襲権を否定する方向に国王評議会を主導し、リトアニアの王国化を阻止した。
1430年代
世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史
前年、オレシニツキがクラクフ司教に就任し、マウォポルスカのマグナート(大領主)の指導者になっていた。彼は公会議主義に立ち、フス主義を異端とした。1424年、ヤギェウォにヴワディスワフ(在位1434〜44)が生まれると、ヤギェウォ家の世襲権を否定する方向に国王評議会を主導し、リトアニアの王国化を阻止した。
1430年代
世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史
1434年、ヴワディスワフ3世(10歳)がポーランド王位に就いた。1430年代、オレシニツキ派の優位が強化され、オレシニツキはヴワディスワフに異端のチェコではなく、ハンガリーの王冠を得させようとした。ハンガリーと協力して、ビザンツとバルカンをオスマン帝国から解放し、公会議主義によって東西両教会が合同する。その結果ポーランドのルーシ支配も容易になると構想した。
1437年、前年にチェコの王冠を得ていたジギスムントが死去、チェコの急進派(反オレシニツキ派)は、ヴワディスワフの弟カジミエシ・ヤギェロンチクを国王に選出した。オレシニツキは2年かけてチェコの急進派を破った。ハンガリー兼チェコ王ハプスブルク家のアルブレヒトが急死し、1440年ヴワディスワフはハンガリーの王冠を得た。しかしヴワディスワフはフィレンツェで宗教合同を成立させ、オスマン帝国との戦いを急ぐ教皇エウゲニウス4世の使節の虜となり、1444年ヴァルナの戦いで戦死した。
1437年、前年にチェコの王冠を得ていたジギスムントが死去、チェコの急進派(反オレシニツキ派)は、ヴワディスワフの弟カジミエシ・ヤギェロンチクを国王に選出した。オレシニツキは2年かけてチェコの急進派を破った。ハンガリー兼チェコ王ハプスブルク家のアルブレヒトが急死し、1440年ヴワディスワフはハンガリーの王冠を得た。しかしヴワディスワフはフィレンツェで宗教合同を成立させ、オスマン帝国との戦いを急ぐ教皇エウゲニウス4世の使節の虜となり、1444年ヴァルナの戦いで戦死した。