
ペロポネソス半島 ビザンツ領になる
ギリシアの北中部がオスマン帝国の支配下に入っていくなか、ペロポネソス半島ではモレア専制公コンスタンティノス(のちのビザンツ皇帝コンスタンティノス11世パライオロゴス 在位1449〜53)が領土を広げていた。1430年にはアカイア公国の拠点パトラスを攻略して、沿岸部のヴェネツィア領を残してペロポネソス半島はビザンツ領となった。1445〜46年にはアテネ、テーベを征服し、さらにテッサリア地方に進軍し、ピンドス山脈まで勢力を広げた。
しかし、オスマン軍は反撃に出て、ペロポネソス半島の入り口、コリントス地峡のヘキサミリオン要塞を破壊し、モレアを略奪した。オスマン軍に対抗するための西欧からの援軍を求めるために、皇帝ヨハネス8世(在位1425〜48)は、1438〜39年のフィレンツェ公会議に出席し、東西教会の合同決議に署名した。しかし援軍は送られず、1453年にコンスタンティノープルは陥落し、ビザンツ帝国は滅びた。ペロポネソス半島に残っていたミストラも1460年にトルコ軍に降伏した。
1430年代
世界各国史17 ギリシア史
地図は ヨーロッパ歴史地図 原書房
上 1382年、下 1430年 各部分
しかし、オスマン軍は反撃に出て、ペロポネソス半島の入り口、コリントス地峡のヘキサミリオン要塞を破壊し、モレアを略奪した。オスマン軍に対抗するための西欧からの援軍を求めるために、皇帝ヨハネス8世(在位1425〜48)は、1438〜39年のフィレンツェ公会議に出席し、東西教会の合同決議に署名した。しかし援軍は送られず、1453年にコンスタンティノープルは陥落し、ビザンツ帝国は滅びた。ペロポネソス半島に残っていたミストラも1460年にトルコ軍に降伏した。
1430年代
世界各国史17 ギリシア史
地図は ヨーロッパ歴史地図 原書房
上 1382年、下 1430年 各部分
