
教皇のローマ帰還と教皇領2
教皇領にはウンブリア、マルケ、ロマーニャの3つの地方があった。教皇の支配権は、ローマからの距離にほぼ比例して名目化していた。教皇権が強化されるまで、各地を現実に支配したのは現地の有力者だった。海上商業都市アンコーナだけは、1532年に教皇の傭兵軍に征服されるまで、ほぼコムーネが支配していた。有力者は市民のなかの第一人者もいたが、多くはシニョーレだった。14世紀以降、教皇領内に同盟者を求めていた教皇は、シニョーレに教皇代官の称号を与えて、見返りに貢納金や軍事援助などを求めた。ただ教皇代官は世襲ではなかったため、シニョーレは世襲による安定した地位を求めていた。
ボローニャのベンティヴォッリョ家やペルージャのバッリョーニ家は有力市民のなかの第一人者だった。モンテフェルトロ家は、12世紀にモンテフェルトロ(ウルビーノ近くの山岳地帯)の伯となり、1234年にウルビーノのシニョーレ、1443年に教皇からウルビーノ公位を得ている。エステ家は、先祖がランゴバルドの名門、13世紀にポデスタ、シニョーレとしてフェッラーラでの権力を確立し、1332年、同市の教皇代官になった。1452年、シニョーレとして支配していた帝国領のモーデナとレッジョ(エミーリア)にたいする公位を皇帝から与えられ、71年、フェッラーラにたいする公位を教皇から与えられた。帝国領内のモーデナ公領と教皇領内のフェッラーラ公領は、エステ家による同君連合になった。
1370年代 教皇のローマ帰還と教皇領1
世界各国史15 イタリア史
ボローニャのベンティヴォッリョ家やペルージャのバッリョーニ家は有力市民のなかの第一人者だった。モンテフェルトロ家は、12世紀にモンテフェルトロ(ウルビーノ近くの山岳地帯)の伯となり、1234年にウルビーノのシニョーレ、1443年に教皇からウルビーノ公位を得ている。エステ家は、先祖がランゴバルドの名門、13世紀にポデスタ、シニョーレとしてフェッラーラでの権力を確立し、1332年、同市の教皇代官になった。1452年、シニョーレとして支配していた帝国領のモーデナとレッジョ(エミーリア)にたいする公位を皇帝から与えられ、71年、フェッラーラにたいする公位を教皇から与えられた。帝国領内のモーデナ公領と教皇領内のフェッラーラ公領は、エステ家による同君連合になった。
1370年代 教皇のローマ帰還と教皇領1
世界各国史15 イタリア史
モンテフェルトロ家とエステ家はともに、善政をおこない、ルネサンス文化を開花させたとして高く評価されている。両家とも有能な傭兵隊長を輩出し、貧困地域の領民には傭兵の職(厳しい仕事だった)を与え、傭兵契約の相手からは自らの領地の保障を得た。
教皇のヨーロッパでの地位が低下してくると、教皇領の政治的・経済的な重要性が高まった。支配を確実にし、収入増加を図るため、教皇はシニョーレを排除した直接支配の確立を目指した。各地の都市の上層市民は、シニョーレの支配より、大きな自治を得られる教皇の支配を歓迎した。15世紀半ば以降、教皇の支配権は拡大し、教皇領は教皇を現実の支配者とする国家になった。
権力が拡大した歴代の教皇のなかには、授封権を利用して、親族に封地を与え、家門の勢力拡大を図ることもあったが、次の教皇になると排撃された。
ウルビーノ公領では、1503年、教皇アレクサンデル6世(在位1492〜1503)は、モンテフェルトロ家のグイドバルドから公位を奪い、実子チェーザレ・ボルジアにその領地を与えた。1508年、教皇ユリウス2世(在位1503〜13)は自分の弟とグイドバルドの妹の息子、フランチェスコ・マリーア・デッラ・ローヴェレをウルビーノ公とした。1516年、メディチ家出身の教皇レオ10世(在位1513〜21)は公位を奪って、自分の兄の息子ロレンツォに与え、ロレンツォの死後は、教皇が直接この公領を支配した。1521年、新教皇はフランチェスコ・マリーアに再び公領を与えている。1631年になって、ウルビーノ公領は教皇の直轄地になった。
この複雑な時期については、歴史書ではないが、塩野七生著「神の代理人」ほかを読むとわかりやすい。
教皇のヨーロッパでの地位が低下してくると、教皇領の政治的・経済的な重要性が高まった。支配を確実にし、収入増加を図るため、教皇はシニョーレを排除した直接支配の確立を目指した。各地の都市の上層市民は、シニョーレの支配より、大きな自治を得られる教皇の支配を歓迎した。15世紀半ば以降、教皇の支配権は拡大し、教皇領は教皇を現実の支配者とする国家になった。
権力が拡大した歴代の教皇のなかには、授封権を利用して、親族に封地を与え、家門の勢力拡大を図ることもあったが、次の教皇になると排撃された。
ウルビーノ公領では、1503年、教皇アレクサンデル6世(在位1492〜1503)は、モンテフェルトロ家のグイドバルドから公位を奪い、実子チェーザレ・ボルジアにその領地を与えた。1508年、教皇ユリウス2世(在位1503〜13)は自分の弟とグイドバルドの妹の息子、フランチェスコ・マリーア・デッラ・ローヴェレをウルビーノ公とした。1516年、メディチ家出身の教皇レオ10世(在位1513〜21)は公位を奪って、自分の兄の息子ロレンツォに与え、ロレンツォの死後は、教皇が直接この公領を支配した。1521年、新教皇はフランチェスコ・マリーアに再び公領を与えている。1631年になって、ウルビーノ公領は教皇の直轄地になった。
この複雑な時期については、歴史書ではないが、塩野七生著「神の代理人」ほかを読むとわかりやすい。