
教皇のローマ帰還と教皇領1
教皇庁は、フランス国王が百年戦争で苦戦しているあいだに、アヴィニョンでの官僚組織を整備するとともに、イタリアの教皇領の秩序再建も図っていた。1353年以降約10年のあいだ、教皇特使だったカスティーリャ人枢機卿アルボルノスは、教皇領各地で教皇の支配権を拡大して、教皇のローマ帰還の準備を進めていた。
1377年1月、教皇がローマに帰還すると、ローマは教皇とコムーネの二重権力となった。翌年から1417年まで続く「教会大分裂」の期間、教皇の支配権は安定せず、コムーネは自治権を保持していた。1379年、ローマ市民は、教皇による自由抑圧の象徴だったサン・タンジェロ要塞を破壊した。
1404年、ローマの守護者を自称したナポリ国王ラディズラーオは、教皇とコムーネの対立を調停し、コムーネの自治権を認めたが、1408年にローマを軍事占領、その後教皇領内の支配をさらに拡大した。1414年、ラディズラーオの死後、ナポリ王国は混乱し、教皇は教皇領での支配回復を図った。ローマのコムーネは内部抗争のために勢力を弱めていた。
1370年代 教皇のローマ帰還と教皇領2
1377年1月、教皇がローマに帰還すると、ローマは教皇とコムーネの二重権力となった。翌年から1417年まで続く「教会大分裂」の期間、教皇の支配権は安定せず、コムーネは自治権を保持していた。1379年、ローマ市民は、教皇による自由抑圧の象徴だったサン・タンジェロ要塞を破壊した。
1404年、ローマの守護者を自称したナポリ国王ラディズラーオは、教皇とコムーネの対立を調停し、コムーネの自治権を認めたが、1408年にローマを軍事占領、その後教皇領内の支配をさらに拡大した。1414年、ラディズラーオの死後、ナポリ王国は混乱し、教皇は教皇領での支配回復を図った。ローマのコムーネは内部抗争のために勢力を弱めていた。
1370年代 教皇のローマ帰還と教皇領2
ニコラウス5世(在位1447〜55)以降、ローマが教皇所在地として定着して、経済状況が好転してくると、コムーネは教皇の支配の手段となった。ローマの人口は14世紀末に1万7千人、15世紀半ばに3万5千人、1517年には8万5千人になっている。
ローマの周辺(ラツィオ丘陵地域)は、そこに所領、城塞などを持つ豪族(コロンナ家、オルシーニ家、アングイッラーラ家など)によって支配されていた。これらの豪族は、ローマ市内にも家屋や要塞を持ち、相互に同盟、対抗していた。その多くは、ナポリ国王と封建関係を結び、ナポリ王国に爵位と所領をもつこともあったが、教皇国家ではアングイッラーラ伯家を除いて爵位がなく、実力で支配していた。ローマ進出をはかる外国勢力にとって、戦略地点に城塞を持つ豪族は、同盟相手として利用価値があった。
ローマに定着した教皇権力が拡大すると、コロンナ家出身の教皇マルティヌス5世(在位1417〜31)が、同家に特権や所領を授与したり、インノケンティウス8世(在位1484〜92)が、没収したアングイッラーラ伯領を自分の息子に授与することもあった。
世界各国史15 イタリア史
ローマの周辺(ラツィオ丘陵地域)は、そこに所領、城塞などを持つ豪族(コロンナ家、オルシーニ家、アングイッラーラ家など)によって支配されていた。これらの豪族は、ローマ市内にも家屋や要塞を持ち、相互に同盟、対抗していた。その多くは、ナポリ国王と封建関係を結び、ナポリ王国に爵位と所領をもつこともあったが、教皇国家ではアングイッラーラ伯家を除いて爵位がなく、実力で支配していた。ローマ進出をはかる外国勢力にとって、戦略地点に城塞を持つ豪族は、同盟相手として利用価値があった。
ローマに定着した教皇権力が拡大すると、コロンナ家出身の教皇マルティヌス5世(在位1417〜31)が、同家に特権や所領を授与したり、インノケンティウス8世(在位1484〜92)が、没収したアングイッラーラ伯領を自分の息子に授与することもあった。
世界各国史15 イタリア史