
スウェーデン王 アルブレクト3世即位
北ドイツ諸侯のひとつメクレンブルク公国はリューベックの東にあり、ロストックとヴィスマルの港をもっていた。1321年、スウェーデン・ノルウェー王マグヌス・エーリクソンの摂政だった王母インゲボルグと同盟し、マグヌスの妹エウフェミーアとメクレンブルク公ハインリヒの息子アルプレヒト2世との婚約が決められた。この二人から1340年に生まれたのがアルプレヒト3世。マグヌス・エーリクソンの甥で、スウェーデンのフォルクング王家とノルウェーのスヴェッレ王家の血統を引いていた。
スウェーデンの参事会貴族は、1359年に王位に就けた王太子エーリックが急死しため、1363年にメクレンブルク家のアルプレヒト3世を王に招致した。
1364年、アルプレヒト3世はウップランドのムーラの石の上に立って歓呼を浴びる、伝承の形式によってスウェーデン王位についた。アルブレクト・アヴ・メクレンブルク。若い王はドイツの公国宮廷で育ち、ドイツ的支配関係になじんでいて、参事会が望む貴族連合的な支配を認めようとしなかった。参事会は王と対立して内戦になった。王は屈服して、古き良き慣習の遵守を誓約させられた。
1360年代
世界各国史21 北欧史
スウェーデンの参事会貴族は、1359年に王位に就けた王太子エーリックが急死しため、1363年にメクレンブルク家のアルプレヒト3世を王に招致した。
1364年、アルプレヒト3世はウップランドのムーラの石の上に立って歓呼を浴びる、伝承の形式によってスウェーデン王位についた。アルブレクト・アヴ・メクレンブルク。若い王はドイツの公国宮廷で育ち、ドイツ的支配関係になじんでいて、参事会が望む貴族連合的な支配を認めようとしなかった。参事会は王と対立して内戦になった。王は屈服して、古き良き慣習の遵守を誓約させられた。
1360年代
世界各国史21 北欧史
参事会のリーダー、摂政職ブー・ユーンソンは全国約340教区に散在する免税地と城、官職、封土を集めていた。1386年に死んだブー・ユーンソンは遺言書を遺し、財産と特権全体を管理する、スウェーデン人有力貴族からなる遺産管理人団(遺言執行団)を指名していた。中世スウェーデンには相続(とくに不動産)にかんする遺言状慣行はなかった。
王と遺言執行団は対立した。王は広大な所領と支配拠点を獲得して強力な王権の実現をめざし、有力者たちは貴族寡頭制維持を望んでいた。アルブレクトはメクレンブルクとドイツから傭兵を集め、有力者(貴族・高位聖職者)たちは、デンマークとノルウェーの摂政マルグレーテと接触しようとしていた。
デンマーク王(オーロフ3世)、ついでノルウェー王(オーラヴ4世)となったオーロフは、マグヌス・エーリクソン王の孫で、スウェーデン王位にたいする王位継承請求権をもっていたが、1387年8月、17歳で急死した。スウェーデン王アルブレクトは母方でノルウェー王家の血を引き、その王位請求権をもっていた。またメクレンブルク公家のアルプレヒト4世(マルグレーテの姉インゲボーの息子)は正当なデンマークの王位請求権者だった。
王と遺言執行団は対立した。王は広大な所領と支配拠点を獲得して強力な王権の実現をめざし、有力者たちは貴族寡頭制維持を望んでいた。アルブレクトはメクレンブルクとドイツから傭兵を集め、有力者(貴族・高位聖職者)たちは、デンマークとノルウェーの摂政マルグレーテと接触しようとしていた。
デンマーク王(オーロフ3世)、ついでノルウェー王(オーラヴ4世)となったオーロフは、マグヌス・エーリクソン王の孫で、スウェーデン王位にたいする王位継承請求権をもっていたが、1387年8月、17歳で急死した。スウェーデン王アルブレクトは母方でノルウェー王家の血を引き、その王位請求権をもっていた。またメクレンブルク公家のアルプレヒト4世(マルグレーテの姉インゲボーの息子)は正当なデンマークの王位請求権者だった。