
オスマントルコ ムラト1世 アドリアノープル征服
オスマン朝は第2代オルハンの時代に、ヨーロッパ側のゲリボル(ガリポリ)に拠点を得ていた。1361年頃、ムラト1世(在位1360〜89)はバルカン側に侵攻し、1362年にはビザンツ帝国の重要都市アドリアノープル(トルコ語ではエディルネ)を征服した。これによってビザンツ帝国はコンスタンティノープル西側の後背地を失った。エディルネはバルカン地域でのオスマン朝の活動拠点となり、15世紀初めには首都のようになったとされる。
バルカン地域はオスマン朝時代に、ローマ人の土地を意味するルメリと呼ばれた。ルメリはアナトリアより重視され、同名の官職がルメリとアナドルにおかれたときは、ルメリ側が上位となった。
1360年代
世界各国史17 ギリシア史
バルカン地域はオスマン朝時代に、ローマ人の土地を意味するルメリと呼ばれた。ルメリはアナトリアより重視され、同名の官職がルメリとアナドルにおかれたときは、ルメリ側が上位となった。
1360年代
世界各国史17 ギリシア史
この頃までにビザンツ帝国の版図は縮小していた。島嶼部を除くと、アナトリアではパライオロゴス朝の領土はほとんどなくなり、黒海沿岸のコムネノス朝系のトレビゾンド帝国がわずかな領土を維持がしていた。
バルカンの西部はセルビア王国領となり、東部の北半はブルガリア王国が支配していた。南部の多くと島嶼部はラテン人が支配していた。バルカンのビザンツ帝国領はトラキア、ストリュモンの大半、テッサロニキとその周辺、ペロポネソス半島の一部だった。ムラト1世によってトラキアの大半とアドリアノープルを失った。
地図は ヨーロッパ歴史地図 原書房
1382年 オスマン帝国の進出 部分
バルカンの西部はセルビア王国領となり、東部の北半はブルガリア王国が支配していた。南部の多くと島嶼部はラテン人が支配していた。バルカンのビザンツ帝国領はトラキア、ストリュモンの大半、テッサロニキとその周辺、ペロポネソス半島の一部だった。ムラト1世によってトラキアの大半とアドリアノープルを失った。
地図は ヨーロッパ歴史地図 原書房
1382年 オスマン帝国の進出 部分
