マゼラン6
マゼランは反撃の計画を立て、それを実行した。まず船長、航海長を旗艦トリニダー号に招集した。サン・アントニオ号からはマゼランに来るように求める伝言が届けられた。マゼランはその伝令のボートを押さえ、自分の船の小さなボートで信頼できる警吏官ゴメス・デ・エスピノザと数人の兵士を小さめのヴィクトリア号に送った。エスピノザはマゼランの手紙を船長ルイス・デ・メンドーサに渡した。そしてその手紙が無視されると同時にメンドーサを殺した。
その間マゼランは押さえていたボートにドゥアルテ・バルボーザと15人の兵士を乗せ、ヴィクトリア号に送っていた。ヴィクトリア号は制圧された。
ヴィクトリア号、サンティアゴ号、トリニダー号3隻が港の出口を塞いで、反乱は終わった。
マゼランはメンドーサの死体を四つ裂きにして反逆者の表示とともにさらさせた。ケサーダは彼の従者から斬首され四つ裂きにされた。ケサーダの従者ルイス・デ・モリーナは絞首刑になるか、刑を執行して助命されるかの選択を迫られ後者を選んだ。
船隊の総監察官で総司令官のホアン・デ・カルタヘナの処刑はマゼランもためらった。陰謀に関わっていた司祭ペドロ・サンチェス・デ・ラ・レイナとともに置き去りにされることになった。
反乱は資料によってサン・フリアンに着いてまもなくか、2ヶ月ほどたってから起きたらしい。
ピガフェッタは停泊して2ヶ月ほどたって「巨人のように大きな男」があらわれたと書いている。テウェルチェ人との出会いだった。マゼランは7人を彼らの家まで派遣した。翌日、帰るときにスペイン人は何人かのテウェルチェ人を船に連れて行こうとしてトラブルになった。1人だけが連れてこられたが、食べ物を拒んで餓死したという。
マゼランがつけたパタゴネスという民族名からこの地方はパタゴニアと呼ばれるようになった。パタゴネスは足の大きな人を意味するパタゴンの複数形。
最初に出会った人が特別大きかったのか、彼らがグアナコの毛皮で足を包んでいて足跡が大きかったからかもしれない。
ピガフェッタの「われわれの頭がその腰までしかなかった」というのは現実を中世の伝説のなかで捕らえようとしたためらしい。
マゼラン 世界周航 マゼラン7 マゼラン海峡通過
地図はワイドアトラス世界地図帳 平凡社
その間マゼランは押さえていたボートにドゥアルテ・バルボーザと15人の兵士を乗せ、ヴィクトリア号に送っていた。ヴィクトリア号は制圧された。
ヴィクトリア号、サンティアゴ号、トリニダー号3隻が港の出口を塞いで、反乱は終わった。
マゼランはメンドーサの死体を四つ裂きにして反逆者の表示とともにさらさせた。ケサーダは彼の従者から斬首され四つ裂きにされた。ケサーダの従者ルイス・デ・モリーナは絞首刑になるか、刑を執行して助命されるかの選択を迫られ後者を選んだ。
船隊の総監察官で総司令官のホアン・デ・カルタヘナの処刑はマゼランもためらった。陰謀に関わっていた司祭ペドロ・サンチェス・デ・ラ・レイナとともに置き去りにされることになった。
反乱は資料によってサン・フリアンに着いてまもなくか、2ヶ月ほどたってから起きたらしい。
ピガフェッタは停泊して2ヶ月ほどたって「巨人のように大きな男」があらわれたと書いている。テウェルチェ人との出会いだった。マゼランは7人を彼らの家まで派遣した。翌日、帰るときにスペイン人は何人かのテウェルチェ人を船に連れて行こうとしてトラブルになった。1人だけが連れてこられたが、食べ物を拒んで餓死したという。
マゼランがつけたパタゴネスという民族名からこの地方はパタゴニアと呼ばれるようになった。パタゴネスは足の大きな人を意味するパタゴンの複数形。
最初に出会った人が特別大きかったのか、彼らがグアナコの毛皮で足を包んでいて足跡が大きかったからかもしれない。
ピガフェッタの「われわれの頭がその腰までしかなかった」というのは現実を中世の伝説のなかで捕らえようとしたためらしい。
マゼラン 世界周航 マゼラン7 マゼラン海峡通過
1520年5月、マゼランはいちばん小さいサンティアゴ号を偵察のために派遣した。20レグアほど南下してサンタ・クルス川の河口に着いた。さらに3レグアほど南下したときに暴風にあって船が座礁した。船長セラーノの奴隷が命を落としたが乗組員37人は助かった。1レグアは約5.6km。
そのうち2人が厳しい陸路をサン・フリアンまで戻った。マゼランは食糧を持った数人を派遣した。海が荒れていたため船が使えず、2ヶ月間陸路での補給が続いた。いばらが茂る難路で、飲み水はなく氷しかないという苦しい行程だった。しかし船の備品や荷物のほとんどは回収できた。ホアン・セラーノはコンセプシオン号の船長に任命された。
8月マゼランは前進を開始した。22日ホアン・デ・カルタヘナとサンチェス・デ・ラ・レイナを置き去りにしてマゼラン船隊4隻はサン・フリアンを出発した。サンタ・クルス湾に10月18日まで止まって魚をとり、薪や水を補給した。
21日に南緯52度を越え、見えた岬を1万1千聖母の岬と名付けた。その岬の西をサン・アントニオ号とコンセプシオン号に5日間調査させた。戻って来た2隻は入り組んだ海峡らしいと報告した。マゼランは再びサン・アントニオ号を水路の奥に派遣した。