マゼラン5
1519年9月20日、マゼラン船隊はサンルーカル・デ・バラメータを出港しカナリア諸島に向かった。旗艦トリニダー号は先頭に立ち、昼間は旗で、夜はファロルという松明で指示を出していた。26日カナリア諸島に着き、肉、水、薪などを補給、10月2日カナリア諸島を出発した。通常は貿易風を利用して西または西南に向かうのだが、マゼランは南に向かう指示を出した。この進路変更に共同司令官を自負するホアン・デ・カルタヘナが抗議したが、マゼランは説明を求めるな、と突っぱねた。シエラ・レオナ沖で凪ぎになり、それが20日間続いた。
毎日暗くなる前に旗艦に近づき挨拶を送ることになっていた。凪の間にカルタヘナは総司令官と呼びかけるところを船長として挨拶を送った。マゼランは正規の挨拶を送るように伝言させたが、カルタヘナはそれを無視した。
その後ヴィクトリア号で男色の罪が発覚した。マゼランは各船の船長、航海長を招集した。男色の二人はブラジルに着いて処刑されることになった。ついで進路や挨拶の仕方で議論となった。それぞれが意見を述べあった後、マゼランはカルタヘナを逮捕した。財務官ルイス・デ・メンドーサがカルタヘナの身柄を預かり、サン・アントニオ号の船長にはアントニオ・デ・コカが任命された。
航海の始めからポルトガル人とスペイン人の対立があった。またマゼランの南下はポルトガル船による攻撃を避けるためだったかもしれない。
1519年11月29日、船隊はブラジル北東部のサン・アウグスティン岬に近づいた。これから帰国するまでフランシスコ・アルボという航海長が丹念な航海日誌を残している。
12月13日から27日までリオ・デ・ジャネイロ近くのグァナバラ湾に止まった。そこはポルトガル領だが、当時の技術では分からなかったしポルトガル人もいなかった。ここで一行はトゥピナンパ族と出会った。ピガフェッタは彼らのことを書いているが、アマカ(ハンモック)、カシケ(首長)などエスパニョーラ島のアラワク語を使っている。また彼らの寿命を125~140歳ともしている。
ピガフェッタがヨーロッパで広がっていた新世界の住民に対する固定されたイメージにあわせて現実を理解しようとしていたのかもしれない。
また人肉食についても、4年間ここで過ごした航海長ジョアン・カルヴァリョから聞いた話として記している。
マゼラン一行とトゥピナンパ族は友好な関係だった。
ポルトガル王室の依頼でブラジルへ行き、トゥピナンパ族に捕らえられて数年を過ごし、救出されてその体験を1557年ドイツで出版したハンス・シュターデンによる記録もある。
1519年12月28日、船隊は南西に向けて出発、翌年1月10日には南緯35度のラ・プラタ川河口に来ている。ベハイムの地図では海峡はもっと北にあるはずだった。ディアス・デ・ソリスの探検結果もマゼランは知っていたはず。サンティアゴ号を調査に向かわせたがやはり河口だった。その間その南側でも海峡を探している。
ここでピガフェッタは巨人との出会いを書いている。
毎日暗くなる前に旗艦に近づき挨拶を送ることになっていた。凪の間にカルタヘナは総司令官と呼びかけるところを船長として挨拶を送った。マゼランは正規の挨拶を送るように伝言させたが、カルタヘナはそれを無視した。
その後ヴィクトリア号で男色の罪が発覚した。マゼランは各船の船長、航海長を招集した。男色の二人はブラジルに着いて処刑されることになった。ついで進路や挨拶の仕方で議論となった。それぞれが意見を述べあった後、マゼランはカルタヘナを逮捕した。財務官ルイス・デ・メンドーサがカルタヘナの身柄を預かり、サン・アントニオ号の船長にはアントニオ・デ・コカが任命された。
航海の始めからポルトガル人とスペイン人の対立があった。またマゼランの南下はポルトガル船による攻撃を避けるためだったかもしれない。
1519年11月29日、船隊はブラジル北東部のサン・アウグスティン岬に近づいた。これから帰国するまでフランシスコ・アルボという航海長が丹念な航海日誌を残している。
12月13日から27日までリオ・デ・ジャネイロ近くのグァナバラ湾に止まった。そこはポルトガル領だが、当時の技術では分からなかったしポルトガル人もいなかった。ここで一行はトゥピナンパ族と出会った。ピガフェッタは彼らのことを書いているが、アマカ(ハンモック)、カシケ(首長)などエスパニョーラ島のアラワク語を使っている。また彼らの寿命を125~140歳ともしている。
ピガフェッタがヨーロッパで広がっていた新世界の住民に対する固定されたイメージにあわせて現実を理解しようとしていたのかもしれない。
また人肉食についても、4年間ここで過ごした航海長ジョアン・カルヴァリョから聞いた話として記している。
マゼラン一行とトゥピナンパ族は友好な関係だった。
ポルトガル王室の依頼でブラジルへ行き、トゥピナンパ族に捕らえられて数年を過ごし、救出されてその体験を1557年ドイツで出版したハンス・シュターデンによる記録もある。
1519年12月28日、船隊は南西に向けて出発、翌年1月10日には南緯35度のラ・プラタ川河口に来ている。ベハイムの地図では海峡はもっと北にあるはずだった。ディアス・デ・ソリスの探検結果もマゼランは知っていたはず。サンティアゴ号を調査に向かわせたがやはり河口だった。その間その南側でも海峡を探している。
ここでピガフェッタは巨人との出会いを書いている。
ラ・プラタ川河口で15日止まったが海峡はなかった。以後沿岸航海しながらの南下が始まった。南緯40度でサン・マティアス湾を調べ、3月末南緯49度のサン・フリアン湾に着いた。ここで4ヶ月半止まることになった。5月に入ると寒さが厳しくなった。マゼランは残っている食糧を調べ、供給量を抑制させた。乗組員たちは少し暖かい地域へ戻るように求めたが、マゼランは国王の命令を基にそれを断った。そこでは水や薪、海貝や魚を得ることができた。
ブラジルでマゼランはサン・アントニオ号の船長コカを解任し、ポルトガル人アルヴァロ・デ・メスキータを任命していた。
カルタヘナとコンセプシオン号のガスパル・デ・ケサーダ、アントニオ・デ・コカが共謀した。サン・アントニオ号に乗り付け、船長メスキータを捕らえた。それに抗議した副長ホアン・デ・エロリアーガはケサーダに殺された。サン・アントニオ号の指揮はエルカーノがとることになった。
スペイン人が3隻を押さえ主導権を奪った。しかし国王への反逆ととられることを恐れたため、強硬な主張はできなかった。
マゼラン 世界周航 マゼラン6 マゼラン海峡まで
ブラジルでマゼランはサン・アントニオ号の船長コカを解任し、ポルトガル人アルヴァロ・デ・メスキータを任命していた。
カルタヘナとコンセプシオン号のガスパル・デ・ケサーダ、アントニオ・デ・コカが共謀した。サン・アントニオ号に乗り付け、船長メスキータを捕らえた。それに抗議した副長ホアン・デ・エロリアーガはケサーダに殺された。サン・アントニオ号の指揮はエルカーノがとることになった。
スペイン人が3隻を押さえ主導権を奪った。しかし国王への反逆ととられることを恐れたため、強硬な主張はできなかった。
マゼラン 世界周航 マゼラン6 マゼラン海峡まで