マゼラン4
5隻の船と234人の乗員を国王は約束したが、国庫に金はなかった。最初4000ドゥカートと見積もられた総費用は6倍の2万4千ドゥカートに昇ったらしい。
資金の大半はフッガー商会が負担した。船の購入、艤装、武器や食糧の調達などではクリストバル・デ・アロが活躍した。 この間ポルトガルの外交代表やスパイたちは詳細な情報を集め、スペイン王や重臣に計画の中止を求めていた。
トリニダー号 マゼラン 110トン
サン・アントニオ号 ホアン・デ・カルタヘナ 120トン
コンセプシオン号 ガスパル・デ・ケサーダ 90トン
ヴィクトリア号 ルイス・デ・メンドーサ 85トン
サンティアゴ号 ジョアン・セラーン 75トン
5隻の船全てが老朽船だったともされている。
1518年10月22日トリニダー号進水のときに事件が起きた。たまたま王室と船の旗が修理中で、船長(マゼラン)の旗だけが4本上げられていた。それがポルトガル王室の旗と似ていたため大混乱となった。マゼランはポルトガルのスパイによる煽動とする報告書を国王に提出し、国王もそれを了承した。
ポルトガルの妨害もあって、準備が遅れていた。国王は1519年4月15日に出帆するように命じたが乗組員が集まっていなかった。8月10日国王の厳命によってセビリャを出港、サンルーカル・デ・バラメイダ港で残務のため遅れたマゼランと合流し補給品を積んで、9月20日大西洋に向かった。
船に積まれていた物は通商院の記録で分かる。
食料
ビスケット(固パン)、干し魚、ベーコン、ソラマメ、ヒヨコマメ、レンズマメ、小麦粉、米、アンチョビ、砂糖、イチジク、チーズ、蜜、ニンニク、酢、オリーブ油、塩、葡萄酒など。生きた牛や豚も積んでいた。
武器
71門の砲。360本の矢をつけた大弓60、小銃50、槍1000本、円楯200個、火薬50キンタル 他
航海用具
6対の羅針盤、21個の木製四分儀、6個の金属製アストロラーベ(天測儀)
交易用
水銀20キンタル、辰砂(朱)30キンタル、明礬100キンタル、サフラン20ポンド、ボンネット帽200個、3種類の鈴2万個、櫛1000個、小型の鏡1000個、釣り針1万本、ハサミ50ダース、ドイツ製の小刀400ダース、他に安手の織物など。その他大量の銅の板や延べ棒が積まれていた。アジアで需要が多いことをマゼランやアロは知っていた。
1キンタルは約100kg。
資金の大半はフッガー商会が負担した。船の購入、艤装、武器や食糧の調達などではクリストバル・デ・アロが活躍した。 この間ポルトガルの外交代表やスパイたちは詳細な情報を集め、スペイン王や重臣に計画の中止を求めていた。
トリニダー号 マゼラン 110トン
サン・アントニオ号 ホアン・デ・カルタヘナ 120トン
コンセプシオン号 ガスパル・デ・ケサーダ 90トン
ヴィクトリア号 ルイス・デ・メンドーサ 85トン
サンティアゴ号 ジョアン・セラーン 75トン
5隻の船全てが老朽船だったともされている。
1518年10月22日トリニダー号進水のときに事件が起きた。たまたま王室と船の旗が修理中で、船長(マゼラン)の旗だけが4本上げられていた。それがポルトガル王室の旗と似ていたため大混乱となった。マゼランはポルトガルのスパイによる煽動とする報告書を国王に提出し、国王もそれを了承した。
ポルトガルの妨害もあって、準備が遅れていた。国王は1519年4月15日に出帆するように命じたが乗組員が集まっていなかった。8月10日国王の厳命によってセビリャを出港、サンルーカル・デ・バラメイダ港で残務のため遅れたマゼランと合流し補給品を積んで、9月20日大西洋に向かった。
船に積まれていた物は通商院の記録で分かる。
食料
ビスケット(固パン)、干し魚、ベーコン、ソラマメ、ヒヨコマメ、レンズマメ、小麦粉、米、アンチョビ、砂糖、イチジク、チーズ、蜜、ニンニク、酢、オリーブ油、塩、葡萄酒など。生きた牛や豚も積んでいた。
武器
71門の砲。360本の矢をつけた大弓60、小銃50、槍1000本、円楯200個、火薬50キンタル 他
航海用具
6対の羅針盤、21個の木製四分儀、6個の金属製アストロラーベ(天測儀)
交易用
水銀20キンタル、辰砂(朱)30キンタル、明礬100キンタル、サフラン20ポンド、ボンネット帽200個、3種類の鈴2万個、櫛1000個、小型の鏡1000個、釣り針1万本、ハサミ50ダース、ドイツ製の小刀400ダース、他に安手の織物など。その他大量の銅の板や延べ棒が積まれていた。アジアで需要が多いことをマゼランやアロは知っていた。
1キンタルは約100kg。
教皇使節の随行員としてサラゴサに来ていたアントニオ・ピガフェッタは、遠征の話を聞くと、教皇使節フランチェスコ・キエレガティの許可を得て遠征に参加することを決めた。
艦隊がセビリャを発つ1ヵ月半前に国王の信任状を持ったピガフェッタはマゼランを訪れた。トリニダード号の定員外に月給1000マラベティで登録されている。彼はこの航海の生き生きとした記録を残している。
1522年9月8日セビリャに戻ると、国王への報告メンバーに入らなかったため、10月21日までにバリャドリーへ行き、カルロス1世に「日々の航海中に起ったすべてのことがらをあつかったわが手記」を献呈している。その後ポルトガルのジョアン3世、フランスのマリー・ルイズに航海の話をし、マントヴァ公の求めに応じて手記の出版準備をしているときに、教皇クレメンス7世に招かれた。
1524年初めローマに移り、4月には手稿が完成していたが出版にはいたらなかった。
原本や国王、教皇に献呈した写本は残されていないが、4種類の初期写本(いずれも聖ヨハネ騎士団長ヴィリエ・ド・リラダンへの献辞を含んでいる)が現存する。
大航海時代叢書第一期第一巻で読める。
1519年5月8日付のカルロス1世のマゼラン、ファレイロへの命令書がある。 74項目に分かれ、こまごまとした指示が書かれている。
まずポルトガルの領域を侵さないこと。
航海の方法、上陸してからの行動、原住民や首長との接触、食料の節約、病人の扱いなどと続いている。
その中でトランプやサイコロ遊びを禁止している。
各地の王や首長が宝石その他の贈り物を差し出した場合には、それは王のものだから監察官、会計官は財務官に保管させる。
また住民との接触では「愛情をもって」つきあうよう、繰り返し指示されている。
「人の住む土地に行ったときには、愛情をもって接し、携帯する品々をたえず与えながら、土地にあるものを知るように心がけよ」
「土地の王または首長がだれかを使節として送ることを希望する場合、あるいは土地の要人がスペイン来訪を望む場合には、十分丁重に扱うよう望む」
エスパニョーラ島その他で起きていた住民との問題に配慮している。当時宮廷に来ていたラス・カサスの影響もあったらしい。
船隊の松明での指示もこの命令書によって細かく定められている。
マゼランの遺言状は8月24日になっている。公証人にこれを作成させてセビリャを発った。
マゼラン 世界周航 マゼラン5 スペイン艦隊出港
艦隊がセビリャを発つ1ヵ月半前に国王の信任状を持ったピガフェッタはマゼランを訪れた。トリニダード号の定員外に月給1000マラベティで登録されている。彼はこの航海の生き生きとした記録を残している。
1522年9月8日セビリャに戻ると、国王への報告メンバーに入らなかったため、10月21日までにバリャドリーへ行き、カルロス1世に「日々の航海中に起ったすべてのことがらをあつかったわが手記」を献呈している。その後ポルトガルのジョアン3世、フランスのマリー・ルイズに航海の話をし、マントヴァ公の求めに応じて手記の出版準備をしているときに、教皇クレメンス7世に招かれた。
1524年初めローマに移り、4月には手稿が完成していたが出版にはいたらなかった。
原本や国王、教皇に献呈した写本は残されていないが、4種類の初期写本(いずれも聖ヨハネ騎士団長ヴィリエ・ド・リラダンへの献辞を含んでいる)が現存する。
大航海時代叢書第一期第一巻で読める。
1519年5月8日付のカルロス1世のマゼラン、ファレイロへの命令書がある。 74項目に分かれ、こまごまとした指示が書かれている。
まずポルトガルの領域を侵さないこと。
航海の方法、上陸してからの行動、原住民や首長との接触、食料の節約、病人の扱いなどと続いている。
その中でトランプやサイコロ遊びを禁止している。
各地の王や首長が宝石その他の贈り物を差し出した場合には、それは王のものだから監察官、会計官は財務官に保管させる。
また住民との接触では「愛情をもって」つきあうよう、繰り返し指示されている。
「人の住む土地に行ったときには、愛情をもって接し、携帯する品々をたえず与えながら、土地にあるものを知るように心がけよ」
「土地の王または首長がだれかを使節として送ることを希望する場合、あるいは土地の要人がスペイン来訪を望む場合には、十分丁重に扱うよう望む」
エスパニョーラ島その他で起きていた住民との問題に配慮している。当時宮廷に来ていたラス・カサスの影響もあったらしい。
船隊の松明での指示もこの命令書によって細かく定められている。
マゼランの遺言状は8月24日になっている。公証人にこれを作成させてセビリャを発った。
マゼラン 世界周航 マゼラン5 スペイン艦隊出港