マゼラン3
1513年初めマゼランはポルトガルに戻ったらしい。8月にマヌエル王はアザムールのムレイ・ザヤム討伐の軍をブラガンサ公指揮のもとモロッコに派遣している。マゼランと弟ディエゴもこれに参加している。この戦いでマゼランは馬を失い、膝を負傷した。以後彼の右足は不自由になった。
敵が残した多くの家畜の処理にあたったのがマゼランとアルヴァロ・モンテイロだった。この件で汚職の疑いをかけられたマゼランは、1514年5月上司に無断で国王に直訴した。マヌエル王は軍に戻るよう命じただけだった。調査の結果疑いは晴れた。
1515年末か1516年の始めマゼランはマヌエル王に月額半クルザードの加俸を求めて断られている。なぜか王に毛嫌いされていたらしく、他の君主に仕える許可を求めるとそれは認められた。
ポルトガルが厳重に管理していた航海の記録をマゼランは自由に見ることができた。そしてルイ・ファレイロという航海と天文に詳しい学者と知り合い、西回りでモルッカ諸島へ向かう航海で合意していたらしい。ドゥアルテ・バルボザがマゼランを訪れたのは1517年6~7月だった。マゼランは熟練したポルトガル人航海者を加えるよう提案している。
1517年10月20日マゼランはいとこのアルヴァロ・デ・メスキータ、ジョアン・ロドリゲス・デ・マフラ、ヴァスコ・ゴメス・ガレーゴたちとセビリャに着いた。ルイ・ファレイロが来たのはやや遅れて12月だった。
1517年10月セビリャに着いたマゼランはディオゴ・バルボザをたより、通商院の係官に自らの計画を説明した。その中で積極的に興味を示したのがホアン・デ・アランダだった。12月遅れて到着したルイ・ファレイロはアランダが加わったことに不快感を隠さなかったが、フォンセカと交渉するにはアランダの働きが必要だった。 12月にマゼランはディオゴ・バルボザの娘ベアトリスと結婚している。 マゼランは1518年1月セビリャを発ってバリャドリーに向かった。一方フォンセカはアロが推すエステヴァン・ゴメスに航海を委せることにしていた。そのことを知ったマゼランは準備を急いだ。2月23日の契約でアランダが利益の8分の1を得ることを認めている。3月マゼランとファレイロは連名で国王宛に「香料諸島発見」に関する覚え書きを提出している。 当時のスペイン王室が重要視していたのがポルトガルの領域を侵さないということだった。トルデシリャス条約は両国によってしっかりと守られていた。 カルロス1世は1517年9月にフランドルからスペインに着いたばかりだった。その王室には多くのフランドル人がいた。 エステヴァン・ゴメスは「海峡」と「香料諸島」がトルデシリャス条約で定められたスペイン側にあることを説明できなかったらしい。フオンセカはエステヴァン・ゴメスからマゼランに乗り換えた。マゼランとファレイロは結果としては間違っていたが、王と側近の説得に成功した。太平洋の存在が知られていなかったため、誰も分かっていなかった。 3月22日国王はマゼラン・ファレイロと協約を結んだ。その年の内に出港する予定だった。
1550年頃に作られたジャコモ・ガスタルディの世界図。マゼランの航海の後でもアメリカ大陸北西部とアジアはつながっていると考えられていた。図説 大航海時代
1517年10月セビリャに着いたマゼランはディオゴ・バルボザをたより、通商院の係官に自らの計画を説明した。その中で積極的に興味を示したのがホアン・デ・アランダだった。12月遅れて到着したルイ・ファレイロはアランダが加わったことに不快感を隠さなかったが、フォンセカと交渉するにはアランダの働きが必要だった。 12月にマゼランはディオゴ・バルボザの娘ベアトリスと結婚している。 マゼランは1518年1月セビリャを発ってバリャドリーに向かった。一方フォンセカはアロが推すエステヴァン・ゴメスに航海を委せることにしていた。そのことを知ったマゼランは準備を急いだ。2月23日の契約でアランダが利益の8分の1を得ることを認めている。3月マゼランとファレイロは連名で国王宛に「香料諸島発見」に関する覚え書きを提出している。 当時のスペイン王室が重要視していたのがポルトガルの領域を侵さないということだった。トルデシリャス条約は両国によってしっかりと守られていた。 カルロス1世は1517年9月にフランドルからスペインに着いたばかりだった。その王室には多くのフランドル人がいた。 エステヴァン・ゴメスは「海峡」と「香料諸島」がトルデシリャス条約で定められたスペイン側にあることを説明できなかったらしい。フオンセカはエステヴァン・ゴメスからマゼランに乗り換えた。マゼランとファレイロは結果としては間違っていたが、王と側近の説得に成功した。太平洋の存在が知られていなかったため、誰も分かっていなかった。 3月22日国王はマゼラン・ファレイロと協約を結んだ。その年の内に出港する予定だった。
協約の内容は
マゼランとファレイロはスペインの分界内で香料などの豊かな土地を発見する。そのために南の海(太平洋)への海峡を探査し西回りの航路を発見する。以後10年間は何人も許可なく同じ航路で航海してはならない。マゼランとファレイロおよびその後継者は発見した土地との総督およびアデランタードの称号を得る。両者は年に1000ドゥカート相当の商品をその地で売却する権利を有し、収益の20分の1を国王に上納する。発見される諸島のうちまず6島は国王が選び取るが、残りの諸島からマゼランとファレイロは2島を選択し、その全収益から経費を差し引いた後の15分の1をとる。この最初の遠征からの収益は5分の1を得る。遠征の船舶は5隻で、乗員は234人、2年分の糧食が供給される。
アデランタード、前進した辺境地で軍事、行政などすべてに最高の権限を持った指揮官
カルロス1世はバリャドリーの議会で王として認められると、アラゴン王国の首都サラゴサに向かった。 ポルトガルもマゼランの計画を知っていた。ポルトガルのマヌエル王とカルロスの姉レオノールとの結婚準備のためにサラゴサに来ていたポルトガル大使アルヴェロ・ダ・コスタは随員にマゼランとファレイロを暗殺するように命じていたともいわれている。フォンセカも二人を護衛させていた。 フォンセカは艦隊の要職を自分の身内で固めはじめた。財務官に配下のルイス・デ・メンドーサを任命し、甥(私生児?)のホアン・デ・カルタヘナを第3の船の船長とした。カルタヘナの友人ガスパール・デ・ケサーダを第4・第5の船の船長にし、フォンセカの兄弟アントニオの庶子アントニオ・デ・コカを経理官に任命した。 ルイ・ファレイロは書類上では総司令官の肩書きだか、第2次探検の総司令官ということにされ、第2の船の船長はカルタヘナに譲られた。通商院のアランダは私的な契約を結んだことが責められ失脚した。 また乗組員の中に多くのポルトガル人が入ることをフォンセカは警戒した。セビリャには経験を積んだポルトガル人の水夫や航海士が多く住んでいた。1516年6月にはフォンセカの意向に添って、参加できるポルトガル人は5名に限る、という勅令が出された。マゼランは国王に訴えて24名まで枠を広げた。実際に採用したポルトガル人は37名、スペイン人の名目でも数人入れたらしい。 イタリア人30名、フランス人19名、他ドイツ人、ギリシャ人、モーロ人などが参加した。
マゼラン 世界周航 マゼラン4 航海の準備 ピガフェッタ参加
アデランタード、前進した辺境地で軍事、行政などすべてに最高の権限を持った指揮官
カルロス1世はバリャドリーの議会で王として認められると、アラゴン王国の首都サラゴサに向かった。 ポルトガルもマゼランの計画を知っていた。ポルトガルのマヌエル王とカルロスの姉レオノールとの結婚準備のためにサラゴサに来ていたポルトガル大使アルヴェロ・ダ・コスタは随員にマゼランとファレイロを暗殺するように命じていたともいわれている。フォンセカも二人を護衛させていた。 フォンセカは艦隊の要職を自分の身内で固めはじめた。財務官に配下のルイス・デ・メンドーサを任命し、甥(私生児?)のホアン・デ・カルタヘナを第3の船の船長とした。カルタヘナの友人ガスパール・デ・ケサーダを第4・第5の船の船長にし、フォンセカの兄弟アントニオの庶子アントニオ・デ・コカを経理官に任命した。 ルイ・ファレイロは書類上では総司令官の肩書きだか、第2次探検の総司令官ということにされ、第2の船の船長はカルタヘナに譲られた。通商院のアランダは私的な契約を結んだことが責められ失脚した。 また乗組員の中に多くのポルトガル人が入ることをフォンセカは警戒した。セビリャには経験を積んだポルトガル人の水夫や航海士が多く住んでいた。1516年6月にはフォンセカの意向に添って、参加できるポルトガル人は5名に限る、という勅令が出された。マゼランは国王に訴えて24名まで枠を広げた。実際に採用したポルトガル人は37名、スペイン人の名目でも数人入れたらしい。 イタリア人30名、フランス人19名、他ドイツ人、ギリシャ人、モーロ人などが参加した。
マゼラン 世界周航 マゼラン4 航海の準備 ピガフェッタ参加