マゼラン2
コロンブスが見つけた大陸は西回りの航海ではモルッカ諸島への壁になった。海峡を見つければすぐにでもモルッカ諸島に着けると期待された。スペインのフェルナンド王は1505年2月に海峡を探すためのトロ会議を開いた。参加したのはフォンセカ、アメリゴ・ヴェスプッチ、ヤニェス・ピンソン。翌年ヤニェス・ピンソンがユカタン半島からブラジルのサン・アウグスティン岬までの沿岸を調べている。
1508年にはブルゴスで会議を開き、ディアス・デ・ソリスとヤニェス・ピンソンがカリブ海、メキシコ湾を探検している。またこの年、セバスティアン・デ・オカンボがキューバを回航している。1509年にはアロンソ・デ・オヘーダとディエゴ・デ・ニエクサがパナマから南米北岸の探検の許可を受け、翌年探検している。
バルボアが南の海(太平洋)をパナマ地峡で見たのは1513年だった。
イタリア商人は早くからポルトガルで活動していた。1475年ポルトガルに漂着したコロンブスもジェノヴァ人社会で暮らしている。
1317年ディニス王はジェノヴァ人エマヌエル・ピサーニと協約を結び、航海術を導入し、海事への出資を奨励している。 1424年にはジェノヴァ人バルトロメオ・ロメリーニがポルトガルとマデイラ諸島で活動している。 1471年にはフィレンツェのバルディ商会が銀行を開業し、クレモナのアファイタディ家はマデイラ諸島でサトウキビの栽培をしていた。 1486年以降はフィレンツェ人バルトロメオ・マルキオーニが銀行業で活躍していた。
1485年ポルトガル人が西アフリカからマラゲッタ胡椒を輸入し始めたことを知ったヤコプ・フッガーはリスボンでジョアン国王と交渉し、その販売権を得た。そしてイタリア商人が活動しているのを知り、代理人としてクリストバル・デ・アロをリスボンに置くことにした。アロはヴェルザー商会とも協力してイタリア商人と対抗し、香料貿易への参入を図った。 1497年行われたカボットのラプラドールへの航海は、アロが北西航路を探すためにヘンリー7世に特許状を出すように要請して行われたものだった。
1508年にはブルゴスで会議を開き、ディアス・デ・ソリスとヤニェス・ピンソンがカリブ海、メキシコ湾を探検している。またこの年、セバスティアン・デ・オカンボがキューバを回航している。1509年にはアロンソ・デ・オヘーダとディエゴ・デ・ニエクサがパナマから南米北岸の探検の許可を受け、翌年探検している。
バルボアが南の海(太平洋)をパナマ地峡で見たのは1513年だった。
イタリア商人は早くからポルトガルで活動していた。1475年ポルトガルに漂着したコロンブスもジェノヴァ人社会で暮らしている。
1317年ディニス王はジェノヴァ人エマヌエル・ピサーニと協約を結び、航海術を導入し、海事への出資を奨励している。 1424年にはジェノヴァ人バルトロメオ・ロメリーニがポルトガルとマデイラ諸島で活動している。 1471年にはフィレンツェのバルディ商会が銀行を開業し、クレモナのアファイタディ家はマデイラ諸島でサトウキビの栽培をしていた。 1486年以降はフィレンツェ人バルトロメオ・マルキオーニが銀行業で活躍していた。
1485年ポルトガル人が西アフリカからマラゲッタ胡椒を輸入し始めたことを知ったヤコプ・フッガーはリスボンでジョアン国王と交渉し、その販売権を得た。そしてイタリア商人が活動しているのを知り、代理人としてクリストバル・デ・アロをリスボンに置くことにした。アロはヴェルザー商会とも協力してイタリア商人と対抗し、香料貿易への参入を図った。 1497年行われたカボットのラプラドールへの航海は、アロが北西航路を探すためにヘンリー7世に特許状を出すように要請して行われたものだった。
1501年以降ポルトガル王室は香料をアントワープに送るようになった。アントワープはドイツの銀山に近く、中部ヨーロッパの商業都市として栄えていた。1502年ポルトガル人にアントワープからの銀の輸出が認められると香料貿易は本格化し、1505年にはポルトガルがヨーロッパの香料貿易を独占した。
1503年2月ドイツの4つの商会はマヌエル王と協約を結び、10000ドゥカートの保証金を支払うことで免税で香料を輸出する許可を得た。またこの年にはマヌエル王の承諾を得て、ブラジル沿岸も調査している。
ポルトガルも造船で必要な物資(木材、ピッチ、タールなど)を北ドイツから輸入できるようになった。 やがてドイツ商人は買い付けに投資し、代理人をインドに派遣することを求めてきた。1505年1月マヌエル王は勅令を出し、王の取り分を除く全ての香料はインディア館の検査官を通して一定の価格で販売されることを定めた。独占を強化しようとする王室とドイツ商人との対立が始まった。 1516年マヌエル王の信頼を失い、フィレンツェ商人から中傷されていたクリストバル・デ・アロはスペインに向かった。
1514年にはポルトガルがアロの出資でジョアン・デ・リスボアを派遣しブラジル沿岸を探検してラ・プラタ川河口を見つけている。しかしそこはスペイン領だったため詳しくは調べられなかった。
1514年スペインのフェルナンド王はディアス・デ・ソリスにポルトガル領を侵さずに海峡を探すように命じ、翌年ラ・プラタ川河口に着いた。そこは大河であることが確かめられたが、現地の住民との争いでディアス・デ・ソリスは死亡した。残された人たちがセビリャに戻ったのは1516年9月だった。
1516年フォンセカと会ったアロは海峡を探すための有能な航海者としてエステヴァン・ゴメスを推した。ディオゴ・バルボザはマゼランを挙げていた。 ドゥアルテ・バルボザはインドのマラバル海岸に長く滞在して、インド洋地域に関する記録も書いていた。しかし1517年ポルトガルに戻ると、なぜか王室の対応は冷たかった。彼の伯父ディオゴ・バルボアは早くからセビリャに住み、有力者の娘と結婚し、要職に就き、広い人脈も持っていた。スペインはアジアの事情に詳しい人物も求めていた。ドゥアルテは1517年6~7月にポルトのマゼランを訪ねている。ディオゴはドゥアルテをスペインに呼んだ。
ポルトガルはインド、マラッカなどの統治に追われていた。1512年中頃セラーンがモルッカ諸島に着いた後、1513年にミランダが立寄り、1515年にコショが貿易のためにテルナテ島に向かった。 モルッカ諸島がトルデシリャス条約で決められたどちらの領域に入るかは分かっていなかった。
マゼラン 世界周航 マゼラン3 マゼラン スペインへ
1492年頃製作された
マルティン・ベハイムの地球儀に
描かれたアジア。ヘンリクス・マルテルスの地図に従っている。
半島の南端にある海峡を越えて入る大きな湾(シヌス・マグヌス)の中に香料諸島(モルッカ諸島)があると考えられていた。
図説 大航海時代
1503年2月ドイツの4つの商会はマヌエル王と協約を結び、10000ドゥカートの保証金を支払うことで免税で香料を輸出する許可を得た。またこの年にはマヌエル王の承諾を得て、ブラジル沿岸も調査している。
ポルトガルも造船で必要な物資(木材、ピッチ、タールなど)を北ドイツから輸入できるようになった。 やがてドイツ商人は買い付けに投資し、代理人をインドに派遣することを求めてきた。1505年1月マヌエル王は勅令を出し、王の取り分を除く全ての香料はインディア館の検査官を通して一定の価格で販売されることを定めた。独占を強化しようとする王室とドイツ商人との対立が始まった。 1516年マヌエル王の信頼を失い、フィレンツェ商人から中傷されていたクリストバル・デ・アロはスペインに向かった。
1514年にはポルトガルがアロの出資でジョアン・デ・リスボアを派遣しブラジル沿岸を探検してラ・プラタ川河口を見つけている。しかしそこはスペイン領だったため詳しくは調べられなかった。
1514年スペインのフェルナンド王はディアス・デ・ソリスにポルトガル領を侵さずに海峡を探すように命じ、翌年ラ・プラタ川河口に着いた。そこは大河であることが確かめられたが、現地の住民との争いでディアス・デ・ソリスは死亡した。残された人たちがセビリャに戻ったのは1516年9月だった。
1516年フォンセカと会ったアロは海峡を探すための有能な航海者としてエステヴァン・ゴメスを推した。ディオゴ・バルボザはマゼランを挙げていた。 ドゥアルテ・バルボザはインドのマラバル海岸に長く滞在して、インド洋地域に関する記録も書いていた。しかし1517年ポルトガルに戻ると、なぜか王室の対応は冷たかった。彼の伯父ディオゴ・バルボアは早くからセビリャに住み、有力者の娘と結婚し、要職に就き、広い人脈も持っていた。スペインはアジアの事情に詳しい人物も求めていた。ドゥアルテは1517年6~7月にポルトのマゼランを訪ねている。ディオゴはドゥアルテをスペインに呼んだ。
ポルトガルはインド、マラッカなどの統治に追われていた。1512年中頃セラーンがモルッカ諸島に着いた後、1513年にミランダが立寄り、1515年にコショが貿易のためにテルナテ島に向かった。 モルッカ諸島がトルデシリャス条約で決められたどちらの領域に入るかは分かっていなかった。
マゼラン 世界周航 マゼラン3 マゼラン スペインへ
描かれたアジア。ヘンリクス・マルテルスの地図に従っている。
半島の南端にある海峡を越えて入る大きな湾(シヌス・マグヌス)の中に香料諸島(モルッカ諸島)があると考えられていた。
図説 大航海時代