大航海時代とルネサンス 大航海時代 ルネサンス 歴史 参考文献 index

マゼラン1

若い頃のことはほとんど分かっていない。1580年ころにポルトガル北部ミーニョ地方のポンテ・ダ・バルカで生まれたとされている。1492年から王妃レオノーラの小姓として弟ディオゴとともに仕えたらしい。その翌年コロンブスが新大陸から帰っている。ヴァスコ・ダ・ガマがインドから帰った時は19歳だった。
1505年インドに向かうフランシスコ・デ・アルメイダが率いる21隻の艦隊に「王家の受給者」として若いフェルナン・デ・マガリャンイス(マゼラン)と弟ディエゴ・デ・ソウサが乗り込んでいた。二人とも月給1000レアルだった。艦隊は10月21日インドのカナノールに着いた。
1506年11月にヌノ・ヴァス・ペレイラが率いる艦隊がアフリカのソファラ要塞の支援に向かい翌年10月インドのコチンに戻った。この航海にマゼランが参加していた。
1509年2月アルメイダはディウ沖の海戦で、マムルーク・グジャラート・カリカットの連合艦隊を破りインド洋支配を強めた。この戦いでペレイラは死亡し、マゼランは負傷した。3月には新しい後継総督アフォンソ・デ・アルブケルケがコチンに着いていた。
1508年4月リスボンを出港したディオゴ・ロペス・デ・セケイラの4隻の艦隊が1509年4月コチンに着いた。その艦隊はマラッカ遠征の為に派遣されたものでコチンで70人を募り、8月マラッカに向かった。この中にマゼランとフランシスコ・セラーンが入っていた。
9月にマラッカに着くと始めは友好的だったが、イスラム商人の警告などもあって攻撃を受けた。そのときに上陸していたポルトガル人の多くを残したまま、1510年1月コチンに戻った。
マラッカでフランシスコ・セラーンを救うためにマゼランは決断力と行動力を示したらしい。
ポルトガル インディア州 図説 大航海時代