その後のコロンブス
スペインに戻ったコロンブスはセビリヤに住んで、持病の痛風のためほとんど寝たきりの生活をしていた。2度王室に手紙を送ったが返事はなく、息子のディエゴに宛てた手紙を書き続けていた。12月初め常にコロンブスを支援していたイサベル女王の死(11月26日)が知らされ、コロンブスは王室があったメディナ・デル・カンポへバルトロメとフェルナンドを向かわせた。
1505年1月11日、トロで開かれたコルテスでイサベル女王の娘フアナが新女王となったが、統治能力が無かったためフェルナンド王が摂政としてカスティーリャを統治することになった。2月インディアスで海峡を探すためのトロ会議が開かれた。この会議に参加するアメリゴ・ヴェスプッチが2月3日コロンブスを訪れた。コロンブスはディエゴに宛てた手紙を託し、アメリゴの支援も期待している。5月になって体調が少し回復したコロンブスは王室があったセゴビアに向かった。フェルナンド王に航海の報告をしたが「サンタ・フェの協約」に関しては明言を得られなかった。10月王室はサラマンカへ移動、コロンブスも従った。翌年4月王室とともにコロンブスはサラマンカからバリャドリーに移った。4月26日新女王フアナがガリシア地方に着くと、コロンブスは新女王への手紙をバルトロメに届けさせた。手紙の返事を待ちながら5月20日コロンブスは息を引き取った。54歳だった。
1509年王室はコロンブスの息子ディエゴをオバンドに代えてエスパニョーラ島の総督・副王に任命した。ディエゴは前年結婚したマリア・デ・トレド・イ・ロハス(アルバ公爵ガルシア・アルバレス・デ・トレドの孫)とともにエスパニョーラ島に住んだ。1526年にディエゴが死亡したため、その息子ルイス(4~5歳)の後見人となったマリアはルイスの権利を主張し続けた。1536年ルイスに年金とインディアスの提督の称号、ペラグア公の爵位と領地が与えられた。1540年から51年までルイスはエスパニョーラ島の総司令官を務めたが行政能力に劣り、二度も重婚罪に問われたため1565年国外追放とされた。
1505年1月11日、トロで開かれたコルテスでイサベル女王の娘フアナが新女王となったが、統治能力が無かったためフェルナンド王が摂政としてカスティーリャを統治することになった。2月インディアスで海峡を探すためのトロ会議が開かれた。この会議に参加するアメリゴ・ヴェスプッチが2月3日コロンブスを訪れた。コロンブスはディエゴに宛てた手紙を託し、アメリゴの支援も期待している。5月になって体調が少し回復したコロンブスは王室があったセゴビアに向かった。フェルナンド王に航海の報告をしたが「サンタ・フェの協約」に関しては明言を得られなかった。10月王室はサラマンカへ移動、コロンブスも従った。翌年4月王室とともにコロンブスはサラマンカからバリャドリーに移った。4月26日新女王フアナがガリシア地方に着くと、コロンブスは新女王への手紙をバルトロメに届けさせた。手紙の返事を待ちながら5月20日コロンブスは息を引き取った。54歳だった。
1509年王室はコロンブスの息子ディエゴをオバンドに代えてエスパニョーラ島の総督・副王に任命した。ディエゴは前年結婚したマリア・デ・トレド・イ・ロハス(アルバ公爵ガルシア・アルバレス・デ・トレドの孫)とともにエスパニョーラ島に住んだ。1526年にディエゴが死亡したため、その息子ルイス(4~5歳)の後見人となったマリアはルイスの権利を主張し続けた。1536年ルイスに年金とインディアスの提督の称号、ペラグア公の爵位と領地が与えられた。1540年から51年までルイスはエスパニョーラ島の総司令官を務めたが行政能力に劣り、二度も重婚罪に問われたため1565年国外追放とされた。
もう一人の息子フェルナンドは1488年にコルドバで貧しい農民の娘ベアトリス・エンリーケス・デ・アラーナを母に生まれた。コロンブスはベアトリスとは結婚しなかったが、第一次航海の年金1万マラベティをベアトリスに贈り、第四次航海に出る前にもディエゴに年額1万マラベティをベアトリスに支払うよう命じている。また彼女の一族からコロンブスの航海に参加した人たちもいた。
フェルナンドは1520年皇帝の戴冠式のためドイツへ向かったカルロス1世に随行し、ドイツ、イタリア、イギリスを訪れ、1522年帰国した。1524年モルッカ諸島の帰属を巡る裁定委員会に参加、翌年には海図修正のための委員会を主宰している。1526年カポットのモルッカ諸島への航海の人員を手配し、カポット不在のあいだインディアス商務院の航海士試験を担当した。1539年50歳で死亡した。
1509年にフェルナンドは238冊の本を持っていたらしい。おそらくコロンブスの遺品だった。その後バルトロメ(1514年没)の蔵書もフェルナンドに贈られた。エスパニョーラ島の400人のインディオの労働の収入がフェルナンドに与えられ、その大半を本の購入に当てていた。人文主義者としても知られていたらしく、エラスムスやセプルベタからの寄贈書も含まれている。15370冊を集めたとされ、著者別、書名別、など4種類の目録も作っている。フェルナンドはこの文庫の維持に年10万マラベティを使うことを条件に甥のルイス(ディエゴの息子)とその母マリアを相続人とした。二人が断った場合はセビリヤの聖堂参事会に寄贈することになっていた。遺言でフェルナンドは文庫の維持、本の配置、貸し出しについての指示を記している。1552年文庫は聖堂参事会に移され、コロンブス図書館の原形となった。
コロンブスが航海の着想を得たとされるピエル・ダイの「世界像」、プリニウスの「自然誌」、マルコ・ポーロの「東方見聞録」、アエネアス・シルビウスの「世界誌」の欄外にはコロンブスのものとされる書き込みが残されている。
大航海時代年表 コロンブスに関する訴訟と記録
フェルナンドは1520年皇帝の戴冠式のためドイツへ向かったカルロス1世に随行し、ドイツ、イタリア、イギリスを訪れ、1522年帰国した。1524年モルッカ諸島の帰属を巡る裁定委員会に参加、翌年には海図修正のための委員会を主宰している。1526年カポットのモルッカ諸島への航海の人員を手配し、カポット不在のあいだインディアス商務院の航海士試験を担当した。1539年50歳で死亡した。
1509年にフェルナンドは238冊の本を持っていたらしい。おそらくコロンブスの遺品だった。その後バルトロメ(1514年没)の蔵書もフェルナンドに贈られた。エスパニョーラ島の400人のインディオの労働の収入がフェルナンドに与えられ、その大半を本の購入に当てていた。人文主義者としても知られていたらしく、エラスムスやセプルベタからの寄贈書も含まれている。15370冊を集めたとされ、著者別、書名別、など4種類の目録も作っている。フェルナンドはこの文庫の維持に年10万マラベティを使うことを条件に甥のルイス(ディエゴの息子)とその母マリアを相続人とした。二人が断った場合はセビリヤの聖堂参事会に寄贈することになっていた。遺言でフェルナンドは文庫の維持、本の配置、貸し出しについての指示を記している。1552年文庫は聖堂参事会に移され、コロンブス図書館の原形となった。
コロンブスが航海の着想を得たとされるピエル・ダイの「世界像」、プリニウスの「自然誌」、マルコ・ポーロの「東方見聞録」、アエネアス・シルビウスの「世界誌」の欄外にはコロンブスのものとされる書き込みが残されている。
大航海時代年表 コロンブスに関する訴訟と記録