コロンブスの訴訟と記録
1508年ディエゴは王室に対しサンタ・フェの協約を遵守することを求めて訴訟を起こした。1511年判決が下されたが、それを不満としてコロンブス側が上訴、1536年の6度目の判決で決着した。当事者はディエゴの死後マリア、息子のルイスと変わっていった。実質的に訴訟に当たっていたのはフェルナンドだとされている。
1534年第一次航海から帰国してまもなく死亡したピンソンの息子フアン・マルティン・ピンソンが法廷で、コロンブスとピンソンとの間に、ピンソンの協力に対しコロンブスの権利の半分を譲るという約束があったと証言、ピンソンはその権利を国王に返上した。王室側は「発見」はコロンブスではなくピンソンの功績と主張し始めた。
1536年の判決でルイスを領地を含めたペラグア公爵とし、いくつかの特典を与える見返りに、ルイスはコロンブスに与えられた権利を放棄することになった。
この間コルテスがアステカを滅ぼし、ピサロがインカを滅ぼしている。次第に見えてきた新世界、王室よりもはるかに大きな権限を持つ臣下は認められなかった。
大航海時代年表 コロンブス
1534年第一次航海から帰国してまもなく死亡したピンソンの息子フアン・マルティン・ピンソンが法廷で、コロンブスとピンソンとの間に、ピンソンの協力に対しコロンブスの権利の半分を譲るという約束があったと証言、ピンソンはその権利を国王に返上した。王室側は「発見」はコロンブスではなくピンソンの功績と主張し始めた。
1536年の判決でルイスを領地を含めたペラグア公爵とし、いくつかの特典を与える見返りに、ルイスはコロンブスに与えられた権利を放棄することになった。
この間コルテスがアステカを滅ぼし、ピサロがインカを滅ぼしている。次第に見えてきた新世界、王室よりもはるかに大きな権限を持つ臣下は認められなかった。
大航海時代年表 コロンブス
第一次航海ではラス・カサスがまとめた航海日誌とコロンブスが帰路サンタンヘルに宛てた手紙が残されている。国王宛の手紙も書かれたらしい。
第二次航海の記録としてはチャンカ博士の手紙が残されている。チャンカ博士はセビリヤの著名な医師で、船医として乗り込む許可を国王から得ていた。コロンブスが両王に宛てて書き、トーレスが届けた1494年1月3日付けの手紙もある。
第三次航海ではコロンブスが両王に宛ててエスパニョーラ島で書いた1498年10月18日付けの手紙とボバディリャに捕らわれた後、両王の王子フアンの保育女官フアナ・デ・ラ・トーレに宛てた手紙が残されている。
第四次航海の記録はコロンブスがジャマイカ島で書いた両王宛の手紙とディエゴ・メンデスの遺言書に書かれたものが残っている。またフェルナンドが書いた「コロンブス提督伝」もある。
「航海日誌」と「コロンブス提督伝」を除く記録は大航海時代叢書第一期第一巻で読める。
この時期以降のエスパニョーラ島の事情はスペインの記録ではほとんど出てこない。イギリスの記録などで牛や豚の放牧が盛んだったことがわかる。皮と塩漬けにした舌を本国に送っていた。食料用にベーコンも作られていたがほとんどの肉は野ざらしにされていた。また今日でも操業している金鉱もある。エスパニョーラ島の面積は北海道とほぼ同じ。
第二次航海の記録としてはチャンカ博士の手紙が残されている。チャンカ博士はセビリヤの著名な医師で、船医として乗り込む許可を国王から得ていた。コロンブスが両王に宛てて書き、トーレスが届けた1494年1月3日付けの手紙もある。
第三次航海ではコロンブスが両王に宛ててエスパニョーラ島で書いた1498年10月18日付けの手紙とボバディリャに捕らわれた後、両王の王子フアンの保育女官フアナ・デ・ラ・トーレに宛てた手紙が残されている。
第四次航海の記録はコロンブスがジャマイカ島で書いた両王宛の手紙とディエゴ・メンデスの遺言書に書かれたものが残っている。またフェルナンドが書いた「コロンブス提督伝」もある。
「航海日誌」と「コロンブス提督伝」を除く記録は大航海時代叢書第一期第一巻で読める。
この時期以降のエスパニョーラ島の事情はスペインの記録ではほとんど出てこない。イギリスの記録などで牛や豚の放牧が盛んだったことがわかる。皮と塩漬けにした舌を本国に送っていた。食料用にベーコンも作られていたがほとんどの肉は野ざらしにされていた。また今日でも操業している金鉱もある。エスパニョーラ島の面積は北海道とほぼ同じ。