コロンブス4_2
ペラグアを出たコロンブスはエスパニョーラ島へ向かうことにした。船の傷みがひどく、1隻はペラグアで倉庫用に残し、次の1隻はホルトベロで放棄、2隻の船で5月13日キューバのピロン港に着いた。エスパニョーラ島へ向かうには風の方向が違っていたため6月ジャマイカ島のサンタ・グロリア湾に移った。2隻とも浸水がひどくなっていて、航行ができなくなっていたため2隻の船を並べて浅瀬に乗り上げ、それを砦として使うことにした。乗員は116人、食料の確保を図るため住民との友好関係を維持しなければならなかった。受け取る食料の量によって住民に与えるガラス玉や鈴の数を定め、コロンブスの一行には勝手にインディオの集落へ行くことを禁じた。
7月上旬エスパニョーラ島へ救助を求めるために、丸木船でディエゴ・メンデス・デ・セグラを派遣した。カトリック両王への書簡などを託されたメンデスはエスパニョーラ島へたどり着いた。島の西部ハラグア地方にいてインディオ制圧をしていた総督オバンドにメンデスが会ったのが8月、オバンドはそのまま制圧作戦を続け、メンデスが許可を得てサント・ドミンゴ(首都)に戻ったのは1504年3月だった。オバンドの協力をあきらめたメンデスは6月になって1隻の船をエスパニョーラ島へ派遣した。
その間ジャマイカ島では1月にポーラス兄弟が決起、コロンブスと一緒では生きて帰れないとして同調者48人が丸木船でエスパニョーラ島へ向かったが失敗、18人が死亡した。この後2度試みたが結局エスパニョーラ島へは渡れず、ポーラス兄弟たちは島を荒らし回っていた。コロンブスの方でも住民が持ってくる食料の減少に困っていた。交換に与える物が住民に行き渡ったことと、スペイン人の食べる量が住民のそれよりも遙かに多かったからだった。
大航海時代年表 その後のコロンブスと一族
7月上旬エスパニョーラ島へ救助を求めるために、丸木船でディエゴ・メンデス・デ・セグラを派遣した。カトリック両王への書簡などを託されたメンデスはエスパニョーラ島へたどり着いた。島の西部ハラグア地方にいてインディオ制圧をしていた総督オバンドにメンデスが会ったのが8月、オバンドはそのまま制圧作戦を続け、メンデスが許可を得てサント・ドミンゴ(首都)に戻ったのは1504年3月だった。オバンドの協力をあきらめたメンデスは6月になって1隻の船をエスパニョーラ島へ派遣した。
その間ジャマイカ島では1月にポーラス兄弟が決起、コロンブスと一緒では生きて帰れないとして同調者48人が丸木船でエスパニョーラ島へ向かったが失敗、18人が死亡した。この後2度試みたが結局エスパニョーラ島へは渡れず、ポーラス兄弟たちは島を荒らし回っていた。コロンブスの方でも住民が持ってくる食料の減少に困っていた。交換に与える物が住民に行き渡ったことと、スペイン人の食べる量が住民のそれよりも遙かに多かったからだった。
大航海時代年表 その後のコロンブスと一族
持っていた暦で2月29日が皆既月食であることを知っていたコロンブスは前日、集落の主だった人たちを集め神の怒りを予言し、皆既月食に驚いた住民から再び食料を得られることになった。総督オバンドが様子を見るために派遣した小型船がジャマイカに到着、葡萄酒と豚肉の樽を置いて行った。メンデスからの手紙を受け取ったコロンブスは救援船が来るのが近いとしてポーラスに和解を呼びかけたが反発され、バルトロメと50人を派遣して5月19日に制圧した。
6月末メンデスが派遣した救援船が到着、コロンブス一行は8月13日サント・ドミンゴに入港した。オバンドは形だけの歓迎をし、捕らえられていたポーラス兄弟は釈放された。9月12日コロンブスはエスパニョーラ島を出港、バルトロメ、エルナンドほか22人が同行し11月7日スペインに着いた。
6月末メンデスが派遣した救援船が到着、コロンブス一行は8月13日サント・ドミンゴに入港した。オバンドは形だけの歓迎をし、捕らえられていたポーラス兄弟は釈放された。9月12日コロンブスはエスパニョーラ島を出港、バルトロメ、エルナンドほか22人が同行し11月7日スペインに着いた。