コロンブス4_1
カトリック両王から信頼を確認されたコロンブスだったが、エスパニョーラ島への航海は難しくなっていった。サンタ・フェの協約の完全実施を求めるコロンブスの要求は時代と合わなくなっていた。ポルトガルではバスコ・ダ・ガマの船隊の1隻が1499年7月10日にリスボンに戻り、マヌエル王は12日付けの書簡をカトリック両王に送っていた。一方イギリスはジョヴァンニ・カボットが1497年ニューファウンドランドへ行き、南下する動きを見せていた。フォンセカの許には自費での航海を求める要望が寄せられていた。
王室はインディアスへの航海を許可することにし、フォンセカが航海許可の発給を取り仕切った。1499年5月アロンソ・デ・オヘーダ、フアン・デ・ラ・コサ、アメリゴ・ヴェスプッチが乗り込んだ航海が行われ、パリア湾から1500年6月に帰った。コロンブスが第四次航海に出るまでの間に8船隊がパリア湾方面に向かった。これらの船隊の目的は真珠を探すことだったらしい。1501年9月王室はエスパニョーラ島総督にニコラス・デ・オバンドを任命。1502年オバンドは30隻の船隊に2500人を乗せてエスパニョーラ島へ向かった。
3ヶ月後の5月コロンブスは4隻の船に140人を乗せて第四次航海のためカディスを出航した。弟のバルトロメと息子フェルナンドが同行した。コロンブスには帰路を除きエスパニョーラ島へ立ち寄ることは禁止されていた。6月コロンブスの船隊はエスパニョーラ島のサント・ドミンゴ沖に到着、部下を派遣しオバンドに入港許可を求めた。不具合のある船の代船を探すのが理由だったがオバンドは入港を断った。そのころオバンドを運んできた船隊がスペインへ向かおうとしていた。コロンブスは嵐が近づいているため出航を1週間遅らせるように忠告した。オバンドはこれも無視し、29隻の艦隊が出航、島の東端で嵐に遭いほとんどの船が大破、沈没した。ボバディリャ、ロルダン、コロンブスの部下トーレスたち約500人が死亡した。この船隊のうちスペインに帰り着いたのは、差し押さえられたコロンブスの財産を積んだアグア号だけだった。
王室はインディアスへの航海を許可することにし、フォンセカが航海許可の発給を取り仕切った。1499年5月アロンソ・デ・オヘーダ、フアン・デ・ラ・コサ、アメリゴ・ヴェスプッチが乗り込んだ航海が行われ、パリア湾から1500年6月に帰った。コロンブスが第四次航海に出るまでの間に8船隊がパリア湾方面に向かった。これらの船隊の目的は真珠を探すことだったらしい。1501年9月王室はエスパニョーラ島総督にニコラス・デ・オバンドを任命。1502年オバンドは30隻の船隊に2500人を乗せてエスパニョーラ島へ向かった。
3ヶ月後の5月コロンブスは4隻の船に140人を乗せて第四次航海のためカディスを出航した。弟のバルトロメと息子フェルナンドが同行した。コロンブスには帰路を除きエスパニョーラ島へ立ち寄ることは禁止されていた。6月コロンブスの船隊はエスパニョーラ島のサント・ドミンゴ沖に到着、部下を派遣しオバンドに入港許可を求めた。不具合のある船の代船を探すのが理由だったがオバンドは入港を断った。そのころオバンドを運んできた船隊がスペインへ向かおうとしていた。コロンブスは嵐が近づいているため出航を1週間遅らせるように忠告した。オバンドはこれも無視し、29隻の艦隊が出航、島の東端で嵐に遭いほとんどの船が大破、沈没した。ボバディリャ、ロルダン、コロンブスの部下トーレスたち約500人が死亡した。この船隊のうちスペインに帰り着いたのは、差し押さえられたコロンブスの財産を積んだアグア号だけだった。
7月27日ホンジュラス沖のグアナハ島に到着、この島の近くでマヤ人の丸木船を捕らえ、彼らが高度な文明生活を送っているのを認めている。その後嵐に苦しみながら香料諸島へ抜ける海峡を探している。海路ヨーロッパに戻ったマルコ・ボーロの東方見聞録からこのあたりの緯度に海峡があるはずだった。(マレー半島の南端は北緯2度あたり)海峡を探し続けているコロンブスの前に再び金が見えてくる。住民達が金の鏡を持っていて、近くに金が採れる場所があることが解ってきた。ペラグア(パナマ)に金鉱があることを知り、その地方の首長キビオと交渉、キビオが不穏な動きを始めたとして彼を捕らえたが逃げられた。コロンブスは居留地を造りバルトロメ他20人を残し、エスパニョーラ島へ向かおうとした。まもなく住民400人が攻撃してきて居留地を攻撃、住民たちとの関係修復が不可能と思ったコロンブスは1503年4月そこを離れた。
コロンブス 第4回航海図 図説 大航海時代
ホンジュラスからパナマにかけて海峡を探した。
大航海時代年表 第4次航海2
ホンジュラスからパナマにかけて海峡を探した。
大航海時代年表 第4次航海2