コロンブス3_2
1498年8月31日エスパニョーラ島に着いたコロンブスはロルダンとの間で交渉を繰り返し、その後の話し合いで4項目に合意した。
1 帰国を希望する15人を速やかに帰国させる。
2 反乱に加わり島に残る人たちには給料に代えて土地と住居を与える。
3 今回の反乱はなかったことにする。
4 ロルダンを終身大法官に任命する。
定住者に土地を分与することは既定方針だったが、コロンブスの裁量による部分は大きく変わり反乱者側の要求をコロンブスが受け入れる形となった。一部のインディオを定住者に与え、食料などを受け取ることも認めた。
島には王室から給料を受け取る人々と、新たに土地を持ちインディオを労働力として自活していく人々が暮らすことになった。
1499年3月コロンブスの手紙でエスパニョーラ島での反乱を知った王室は、フランシスコ・デ・ボバディリャを派遣することに決めた。反乱を収拾し、罪のある人々を処罰するのを目的としていた。統治に苦労しているコロンブスからも司法官の派遣を求められていた。
帰国者たちからの不満なども次々に王室に届いていたらしくコロンブスへの信任が揺らいできた。5月21日になると王室はボバディリャを「判事・総督」に任命し、司法・行政の全権を委ね、この人事をエスパニョーラ島のすべての司法官、行政官に直接発令した。またすべての王室財産をボバディリャに引き渡すよう指示している。また5月26日付けの書状でコロンブスにボバディリャの派遣を知らせ、その指示に従うよう命令している。
ボバディリャ一行がエスパニョーラ島に着いたのは1500年8月23日。コロンブスは内陸のベガ・レアルに行っていて、バルトロメとロルダンはハラグアで反乱の制圧をしていた。出迎えたのは末弟ディエゴ、ボバディリャは勝手にコロンブスの館に入り、そこを宿舎とした。港には絞首台があり二人のカスティリャ人がぶら下がっていた。
1 帰国を希望する15人を速やかに帰国させる。
2 反乱に加わり島に残る人たちには給料に代えて土地と住居を与える。
3 今回の反乱はなかったことにする。
4 ロルダンを終身大法官に任命する。
定住者に土地を分与することは既定方針だったが、コロンブスの裁量による部分は大きく変わり反乱者側の要求をコロンブスが受け入れる形となった。一部のインディオを定住者に与え、食料などを受け取ることも認めた。
島には王室から給料を受け取る人々と、新たに土地を持ちインディオを労働力として自活していく人々が暮らすことになった。
1499年3月コロンブスの手紙でエスパニョーラ島での反乱を知った王室は、フランシスコ・デ・ボバディリャを派遣することに決めた。反乱を収拾し、罪のある人々を処罰するのを目的としていた。統治に苦労しているコロンブスからも司法官の派遣を求められていた。
帰国者たちからの不満なども次々に王室に届いていたらしくコロンブスへの信任が揺らいできた。5月21日になると王室はボバディリャを「判事・総督」に任命し、司法・行政の全権を委ね、この人事をエスパニョーラ島のすべての司法官、行政官に直接発令した。またすべての王室財産をボバディリャに引き渡すよう指示している。また5月26日付けの書状でコロンブスにボバディリャの派遣を知らせ、その指示に従うよう命令している。
ボバディリャ一行がエスパニョーラ島に着いたのは1500年8月23日。コロンブスは内陸のベガ・レアルに行っていて、バルトロメとロルダンはハラグアで反乱の制圧をしていた。出迎えたのは末弟ディエゴ、ボバディリャは勝手にコロンブスの館に入り、そこを宿舎とした。港には絞首台があり二人のカスティリャ人がぶら下がっていた。
8月24日ボバディリャはディエゴと当局者の前で査察官任命状を読み上げさせ、捕らわれている5人の反乱者の引き渡しを求めた。25日、判事・総督の任命状と給料の支払い命令書を示したボバディリャは再び反乱者の引き渡しを求め、断られると5人を強引に連れ出し、自分の管理下に置いた。
給料の支払い命令書に続き大幅な減税を約束し、自分に従う人たちには土地を分与するとしたボバディリャのやり方は王室からの出資の見返りを探していたコロンブスと全く反するものだった。ボバディリャは渡航者たちからの事情聴取だけでコロンブス3兄弟を有罪とした。
9月7日ボバディリャに同行していたフランシスコ会修道士と王室財務官がコロンブスの許に派遣され5月26日付けの書状を届けた。ディエゴはすでに逮捕され、サント・ドミンゴに現れたコロンブスは取り調べもないまま砦に収監、コロンブスの手紙で戻ったバルトロメも逮捕された。10月初め船でスペインに送られるために砦を出たコロンブスは処刑を覚悟していたらしい。足に鉄の鎖をつけたまま10月20(25)日コロンブスたちはカディスに着いた。コロンブスはフアナ・デ・ラ・トーレ宛の書簡を発送し、セビリヤの修道院で両王の指示を待った。
この頃王室はグラナダでフランスとナポリの分割を巡っての交渉が進んでいて、コロンブスの帰国はフアナ・デ・ラ・トーレからフランスとの交渉が決着したあと両王に知らされた。鎖をつけたままの送還に驚いた両王は使者を派遣し、鎖を解かせ、参内するように招き、2000ドゥカードの大金を支度金として届けさせた。両王の使者がコロンブスの許に着いたのが12月12日、指示を待ちこがれていたコロンブスは17日にはグラナダに着いた。イサベラ女王は今回の出来事はボバディリャの独断専行で、コロンブスに与えた特権や恩恵は今後とも誠実に守っていくことを約束した。
イサベラ女王の近習をつとめていた二人の息子ディエゴは21歳、フェルナンドは12歳になっていた。
大航海時代年表 第4次航海1
給料の支払い命令書に続き大幅な減税を約束し、自分に従う人たちには土地を分与するとしたボバディリャのやり方は王室からの出資の見返りを探していたコロンブスと全く反するものだった。ボバディリャは渡航者たちからの事情聴取だけでコロンブス3兄弟を有罪とした。
9月7日ボバディリャに同行していたフランシスコ会修道士と王室財務官がコロンブスの許に派遣され5月26日付けの書状を届けた。ディエゴはすでに逮捕され、サント・ドミンゴに現れたコロンブスは取り調べもないまま砦に収監、コロンブスの手紙で戻ったバルトロメも逮捕された。10月初め船でスペインに送られるために砦を出たコロンブスは処刑を覚悟していたらしい。足に鉄の鎖をつけたまま10月20(25)日コロンブスたちはカディスに着いた。コロンブスはフアナ・デ・ラ・トーレ宛の書簡を発送し、セビリヤの修道院で両王の指示を待った。
この頃王室はグラナダでフランスとナポリの分割を巡っての交渉が進んでいて、コロンブスの帰国はフアナ・デ・ラ・トーレからフランスとの交渉が決着したあと両王に知らされた。鎖をつけたままの送還に驚いた両王は使者を派遣し、鎖を解かせ、参内するように招き、2000ドゥカードの大金を支度金として届けさせた。両王の使者がコロンブスの許に着いたのが12月12日、指示を待ちこがれていたコロンブスは17日にはグラナダに着いた。イサベラ女王は今回の出来事はボバディリャの独断専行で、コロンブスに与えた特権や恩恵は今後とも誠実に守っていくことを約束した。
イサベラ女王の近習をつとめていた二人の息子ディエゴは21歳、フェルナンドは12歳になっていた。
大航海時代年表 第4次航海1