コロンブス3_1
カトリック両王は温かくコロンブスを迎え、コロンブスは信任を得た。その後、サンタ・フェ協約遵守を求めるコロンブスと王室の折衝が行われ、1497年4月確認状が作成された。多くの項目の確認がされたが、1495年4月の自由化令については、6月になって提督の利益に反する事項が撤廃された。コロンブスはこれから発見される島々や大陸(大西洋の彼方にあるすべての土地とそこまでの海)の提督、副王、総督を要求し彼の許ですべての航海を管理することを求めていた。王室が提督の利益としたのはエスパニョーラ島に限った提督、副王、総督コロンブスの権利だった。
第3次航海の参加者の構成は王室が基本方針を定め、それに従ってコロンブスが準備を進めることになった。「インディアス事業」に王室が1歩踏み込んできたことになる。
予定された渡航者は330人。うち金の選鉱夫20人、農夫、野菜・果樹栽培者60人、職人20人、女性30人が考えられていた。エスパニョーラ島を交易の中継地として考えていたコロンブスに対し、王室は植民地として開発する方針を立てていた。農業を振興し食料の自給率を上げるために、1497年7月王室は島の定住者に土地を分与することを決め、その権限をコロンブスに与えた。私有財産を認めることでコロンブスの権利は損なわれるが、事務的に処理されるのではなく、コロンブスの裁量で決められることになった。
実際に集まった渡航者は287人。内訳は金の選鉱夫1人、農夫、野菜・果樹栽培者28人、職人18人、女性2人で当初の予定とは大きく異なっていた。エスパニョーラ島の不評が広まっていて参加者が集まらず、募集が始まって2ヶ月後犯罪者への特赦令が出されている、乗船した犯罪者は10人、うち2人が女性だった。
エスパニョーラ島には船が残されていなかったため、1498年2月、2隻が救援物資を積んで先発した。5月セビリアを出航した第3次航海はカナリア諸島のゴメラ島で3隻がエスパニョーラ島へ向かい、コロンブスは3隻の船でヴェルデ岬諸島へ向かった。コロンブスの船隊は7月4日ヴェルデ岬諸島を出航し北緯5度あたりまで南下、そのあと西へ向い7月30日トリニダード(三位一体)と名付けた島に着いた。
第3次航海の参加者の構成は王室が基本方針を定め、それに従ってコロンブスが準備を進めることになった。「インディアス事業」に王室が1歩踏み込んできたことになる。
予定された渡航者は330人。うち金の選鉱夫20人、農夫、野菜・果樹栽培者60人、職人20人、女性30人が考えられていた。エスパニョーラ島を交易の中継地として考えていたコロンブスに対し、王室は植民地として開発する方針を立てていた。農業を振興し食料の自給率を上げるために、1497年7月王室は島の定住者に土地を分与することを決め、その権限をコロンブスに与えた。私有財産を認めることでコロンブスの権利は損なわれるが、事務的に処理されるのではなく、コロンブスの裁量で決められることになった。
実際に集まった渡航者は287人。内訳は金の選鉱夫1人、農夫、野菜・果樹栽培者28人、職人18人、女性2人で当初の予定とは大きく異なっていた。エスパニョーラ島の不評が広まっていて参加者が集まらず、募集が始まって2ヶ月後犯罪者への特赦令が出されている、乗船した犯罪者は10人、うち2人が女性だった。
エスパニョーラ島には船が残されていなかったため、1498年2月、2隻が救援物資を積んで先発した。5月セビリアを出航した第3次航海はカナリア諸島のゴメラ島で3隻がエスパニョーラ島へ向かい、コロンブスは3隻の船でヴェルデ岬諸島へ向かった。コロンブスの船隊は7月4日ヴェルデ岬諸島を出航し北緯5度あたりまで南下、そのあと西へ向い7月30日トリニダード(三位一体)と名付けた島に着いた。
トリニダード島の南を廻ってパリア湾に入ったコロンブスは初めてアメリカ大陸に到達した。この周りを囲まれたパリア湾にはオリノコ川が流れ込んでいて、コロンブスには湾の水が淡水のように思われた。そしてこれだけの量の水を運んでくる川があるということは大きな大陸があるはずだと考えた。また住民と交易するうちに、金と真珠が採れることが解ってきた。
エスパニョーラ島へ向かっている間、コロンブスはパリア湾がエデンの園でそこから4つの大河(ナイル川、チグリス川、ユーフラテス川、ガンジス川)が流れ出しているという空想もしている。
エスパニョーラ島ではコロンブスが大法官に任命していたロルダンが反乱を起こしていた。コロンブスの最大の目的は金や香料をヨーロッパに持ち帰り王室の出資に応えることだった。住民のなかで反乱を起こした人々を奴隷としスペインに送ったのも焦っていたコロンブスの苦肉の策だった。そのために島では統治者コロンブスに全面的に従わない人々に対して食料や給与の支給をコントロールしていた。留守中統治していた弟バルトロメの施策が厳格だったことなどが原因で、島を私物化しているとしてロルダンがコロンブス兄弟に対して反乱を起こした。渡航者の多くがロルダンに従い、納税を免れると思いこんだインディオもロルダン側についていた。
大航海時代年表 第3次航海2
エスパニョーラ島へ向かっている間、コロンブスはパリア湾がエデンの園でそこから4つの大河(ナイル川、チグリス川、ユーフラテス川、ガンジス川)が流れ出しているという空想もしている。
エスパニョーラ島ではコロンブスが大法官に任命していたロルダンが反乱を起こしていた。コロンブスの最大の目的は金や香料をヨーロッパに持ち帰り王室の出資に応えることだった。住民のなかで反乱を起こした人々を奴隷としスペインに送ったのも焦っていたコロンブスの苦肉の策だった。そのために島では統治者コロンブスに全面的に従わない人々に対して食料や給与の支給をコントロールしていた。留守中統治していた弟バルトロメの施策が厳格だったことなどが原因で、島を私物化しているとしてロルダンがコロンブス兄弟に対して反乱を起こした。渡航者の多くがロルダンに従い、納税を免れると思いこんだインディオもロルダン側についていた。
大航海時代年表 第3次航海2