コロンブス2_2
1494年4月24日、コロンブスはイサベラの統治を弟ディエゴを長とする評議員に委ね、3隻の船に50人を乗せてキューバへ向かった。キューバ南岸を西へ進み、途中でジャマイカ島に寄ってさらにキューバを西に進んだ。6月11日船も傷み、食料も少なくなってきたためコロンブスは引き返すことにした。これほど海岸が長いためキューバが大陸だと判断したコロンブスは同行していた公証人フェルナンド・ペレス・デ・ルナにキューバが大陸であることに同意する証言と署名を求めるように指示している。
ジャマイカ南岸からエスパニョーラ島の南岸を回って9月29日イサベラに帰り着いた。エスパニョーラ島では各地でインディオが反乱を起こし、ボイル修道士と島の治安を委ねたマルガリーテは騎士全員とともに帰国していた。1488年にイギリス、フランスへ向かわせた弟バルトロメーがイサベラに来ていた。スペイン人ではないコロンブスにとって心強い身内が増えた。10月トーレスが国王の書状を持って帰ってきた。この書状でトルデシーリャス条約で航行の安全が確保されたことを知り、コロンブスの指示、命令に従うよう定めた命令書もあった。ただしトーレスが往復できたことで、コロンブスがいなくても航行できることが確かめられた。
1495年3月、島の首長の一人グアカナガリの協力も得てコロンブスは武力での島を制圧する作戦を始めた。10ヶ月かけてカオナボーを捕虜とし、島の混乱は収まった。
多くの金や香料が入手できず焦っていたコロンブスはインディオを奴隷としてスペインに送ることにした。1495年2月に500人が送られたが両王は奴隷としての売却を認めず、インディオを保護した。同年8月弟ディエゴとトーレスとともにさらに500人を送った。イサベラ女王は驚いたが、反乱を起こし制圧されたことが確認されたため競売にかけられた。インディオは最初からカトリック両王の臣下(国民)とされていた。
コロンブスはシバオの住民に3ヶ月に一度、鈴一杯分の砂金を納めさせることにした。しかし思うように集まらず、金鉱でインディオを働かせるようになった。強制労働から逃れるために多くのインディオが山に逃げ、インディオからの食料の供給が止まってしまったため、金の納入制を廃止した。 以後インディオは納税の代わりにスペイン人の農園で働くようになっていった。
1494年12月ボイル修道士たちは両王にエスパニョーラ島には金がなく、投資しても回収は不可能と報告した。他の帰国者たちも金や香料を入手する権利や自由がないことを言い立てていた。
ジャマイカ南岸からエスパニョーラ島の南岸を回って9月29日イサベラに帰り着いた。エスパニョーラ島では各地でインディオが反乱を起こし、ボイル修道士と島の治安を委ねたマルガリーテは騎士全員とともに帰国していた。1488年にイギリス、フランスへ向かわせた弟バルトロメーがイサベラに来ていた。スペイン人ではないコロンブスにとって心強い身内が増えた。10月トーレスが国王の書状を持って帰ってきた。この書状でトルデシーリャス条約で航行の安全が確保されたことを知り、コロンブスの指示、命令に従うよう定めた命令書もあった。ただしトーレスが往復できたことで、コロンブスがいなくても航行できることが確かめられた。
1495年3月、島の首長の一人グアカナガリの協力も得てコロンブスは武力での島を制圧する作戦を始めた。10ヶ月かけてカオナボーを捕虜とし、島の混乱は収まった。
多くの金や香料が入手できず焦っていたコロンブスはインディオを奴隷としてスペインに送ることにした。1495年2月に500人が送られたが両王は奴隷としての売却を認めず、インディオを保護した。同年8月弟ディエゴとトーレスとともにさらに500人を送った。イサベラ女王は驚いたが、反乱を起こし制圧されたことが確認されたため競売にかけられた。インディオは最初からカトリック両王の臣下(国民)とされていた。
コロンブスはシバオの住民に3ヶ月に一度、鈴一杯分の砂金を納めさせることにした。しかし思うように集まらず、金鉱でインディオを働かせるようになった。強制労働から逃れるために多くのインディオが山に逃げ、インディオからの食料の供給が止まってしまったため、金の納入制を廃止した。 以後インディオは納税の代わりにスペイン人の農園で働くようになっていった。
1494年12月ボイル修道士たちは両王にエスパニョーラ島には金がなく、投資しても回収は不可能と報告した。他の帰国者たちも金や香料を入手する権利や自由がないことを言い立てていた。
両王は第一次航海でコロンブスが持ち帰ったエスパニョーラ島の砂から金が抽出されたため、金抽出の専門家パブロ・ベルビスにエスパニョーラ島へ行くことを要請し、1495年3月両者の間で契約が結ばれた。契約期間は2年、抽出された金の10分の1をベルビスが技術報酬として取得すること、ベルビス一行の食料はカディス出港時に受け取り自分たちで管理すること、となっていてコロンブスの影響を受けないことが条件とされた。
1495年4月10日両王はインディアスへの渡航および発見・交易の自由化令を公布した。
王室からの給与を受けない自活者のエスパニョーラ島への渡航を認める。島では免税とし、宅地と農地を無償で与える、自活できるまでの1年間の食料は無償で支給する。
自活者がエスパニョーラ島で発見、採取した金の3分の2、その他ものは10分の1を王室に納める。
本国からエスパニョーラ島を除く島々への航海、交易を自由とする。その際王室の係官が乗船し、積載できる量の10分の1を越えない範囲で王室貨物をエスパニョーラ島へ無償で運ぶ。
エスパニョーラ島を除く島々での交易で得られた利益の10分の1を王室に納める。
インディアスへの渡航はすべてカディスを港とする。
このころエスパニョーラ島からトレースが着いた。コロンブスの健在と相変わらずの食料不足。5月5日両王はフォンセカに救援船の派遣を急ぐように命じた。フォンセカはエスパニョーラ島の悪評で人が集まらないと報告、直ちに保証措置がとられた。これでも集まらなかったため5月30日さらに特典が追加された。1495年8月5日ファン・デ・アグアードが1年契約の渡航者とともに4隻の救援船でエスパニョーラ島へ向かった。10月エスパニョーラ島に到着、アグアードはコロンブスに王室からの指示を伝えた。
給与受給者を500人に制限する。
食料分配を公平にする。
今後島に到着する人々の家畜や生活道具はすべて私物と認め没収しない。
1496年3月10日コロンブスはアグアードとともにイサベラを出航、帰国を希望した220人と30人のインディオが乗っていた。島には400人ほどのスペイン人が残っていた。 6月11日カディスに着いた。これで第二次航海は終わった。
大航海時代年表 第3次航海1
1495年4月10日両王はインディアスへの渡航および発見・交易の自由化令を公布した。
王室からの給与を受けない自活者のエスパニョーラ島への渡航を認める。島では免税とし、宅地と農地を無償で与える、自活できるまでの1年間の食料は無償で支給する。
自活者がエスパニョーラ島で発見、採取した金の3分の2、その他ものは10分の1を王室に納める。
本国からエスパニョーラ島を除く島々への航海、交易を自由とする。その際王室の係官が乗船し、積載できる量の10分の1を越えない範囲で王室貨物をエスパニョーラ島へ無償で運ぶ。
エスパニョーラ島を除く島々での交易で得られた利益の10分の1を王室に納める。
インディアスへの渡航はすべてカディスを港とする。
このころエスパニョーラ島からトレースが着いた。コロンブスの健在と相変わらずの食料不足。5月5日両王はフォンセカに救援船の派遣を急ぐように命じた。フォンセカはエスパニョーラ島の悪評で人が集まらないと報告、直ちに保証措置がとられた。これでも集まらなかったため5月30日さらに特典が追加された。1495年8月5日ファン・デ・アグアードが1年契約の渡航者とともに4隻の救援船でエスパニョーラ島へ向かった。10月エスパニョーラ島に到着、アグアードはコロンブスに王室からの指示を伝えた。
給与受給者を500人に制限する。
食料分配を公平にする。
今後島に到着する人々の家畜や生活道具はすべて私物と認め没収しない。
1496年3月10日コロンブスはアグアードとともにイサベラを出航、帰国を希望した220人と30人のインディオが乗っていた。島には400人ほどのスペイン人が残っていた。 6月11日カディスに着いた。これで第二次航海は終わった。
大航海時代年表 第3次航海1