大航海時代とルネサンス 大航海時代 ルネサンス 歴史 参考文献 index

コロンブス2_1

王室から3月30日付書簡で次の航海の準備をするように指示されたコロンブスだったが、船や乗組員を集めるのに苦労はなかった。資金面でもメディナ・セリ伯が500万マラベティを王室に用立て、さらに多くの出資者がいた。第一次航海の時王室が100万マラベティを工面できなかったのに大貴族は王室を上回る経済力を持っていた。
カスティーリヤ王国国務院のメンバーでセビリヤの助祭長ファン・ロドリゲス・デ・フォンセカとともに準備を進め、5月29日王室からの指示書が出されている。それによるとキリスト教布教のための航海であること。そのためにボイル修道士一行が参加し、連れてきたインディオを通訳として連れていくこと。交遊を深め、インディオに悪行を働く者は厳罰に処す、とされている。
さらに交易は王室のためだけに行われ、何人といえど個人で交易の商品を持ち込むことは禁止されていた。渡航者に支払われるのは給与だけで、多くの渡航者が金を手に入れることを夢見て参加したはずでコロンブスの統治の困難が予想された。 準備を進めるなかでフォンセカとコロンブスとの間で主導権争いのようなものが始まっている。また食料の現地調達は考えられていなかったようで、農夫や農耕用の家畜は土地の状態を調べる程度しか積んでいない。参加したほとんどは兵士で、20人の騎士がエリートとしてコロンブスの独断専行を押さえるために加わった。
9月25日17隻の船団に1500人が乗り込んだ第2次航海が始まった。11月3日西インド諸島に到着、最初に見つけた島を日曜日だったためドミニカ島と名付けた。翌日グアダルーペの聖母にちなんで名付けられたサンタ・マリア・デ・グアダルーペ島に寄り、住民は山へ逃げてしまったが、捕虜とされていた数人を収容した。王室の役人ら9人が無断で島に上陸し樹海で迷ってしまった。捜索のために200人が上陸、彼らが見つけたのは鍋で煮られた男の頭だった。食人種カリベ族の島だった。捕虜にされていた少年は去勢されていて、成人してから祭りの時に食べられることになっていた。
行方不明の9人が戻ったため11月10日出航した。いくつかの島に立ち寄り、エスパニョーラ島のナビター砦沖に着いたのは27日夕方、翌日ボートで上陸すると残していた39人の姿はなく、砦は焼き払われていた。砦のスペイン人は金鉱がある首長カオナボーの土地で乱暴を働き襲撃されていた。12月8日、新たに1500人を収容するためにイサベラという町を造り始めた。
大航海時代年表 第2次航海2
                右上 スマート・アトラス 平凡社
                右下 大航海時代叢書1